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「馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための方法序説」辻夏悟


1


 吉田健一流にまず廻り道をすることから始める。

 1970年代に「吉田健一ブーム」というものがあった。しかも若い読者を中心に。

吉田さんは評論家としても作家としても立派な仕事をなさり、文章が読みづらいということになっているのに、むずかしい文章を読めないと言われている若い人たちは一番熱心な読者であるから、将来の名声は確実だろう。
(ドナルド・キーン吉田健一の思い出」)

 「むずかしい文章を読めないと言われている若い人たち」というぐらいだから読者は10代〜20代のはずである。70年代の若者はあの晦渋な吉田健一の文章を好んで読んだというのだ。

吉田健一の名声は、晩年の十年間、にわかに高まった。それはふるい愛読者をもおどろかすほどの、すさまじい人気だった。
篠田一士「和らぎに勇気づけられる」)

 「すさまじい」という言葉に注目したい。
 「晩年の十年間」とは具体的には1967年から1977年までである。1971年に「新刊展望」に掲載された池島信平「文藝春秋」社長)との対談では吉田健一自身も驚きを隠さない。

このごろですよ、少し楽になったのは……。本がうれるの。どうしてだか、知らないけどね。戦後はじめてだ。
(「恋愛小説のご注文ありませんか」)

 『瓦礫の中』(1970年、読売文学賞)、『絵空ごと』(1971年)、『本当のような話』(1973年)、『金沢』(1973年)、『東京の昔』(1974年)、『埋もれ木』(1974年)と彼の長編小説(一つ残らず傑作!)は全てこの時期に集中している。しかも当然ながら彼は長編以外にも批評、随筆、短編小説をいくつも発表しているのだから物凄いペースである。

 師である河上徹太郎吉田健一が『ヨオロッパの世紀末』(1970年)で野間文芸賞を取った時の祝詞で次のように言っている。

たとへば私は一日に二三枚の論文を苦吟して書きます。彼は一日に二三十枚をああいうふうに書き流していくのです。流さなくちゃ思想が浮かんでこない。これは何かというふと、彼の頭の中に詩があるといふことであつて、それが溶けて流れ出すのです。
(「世紀末人・吉田健一」)

 しかし結局はこのハイペースが吉田健一の健康を崩すことになったのだが。

「やっぱり過労だったんです。」
 お通夜の日、夫人が私に言われた言葉は、まずこれだった。夫人の言葉の意味を、しばらく私は頭の中で思いめぐらした。
山本健吉「往時渺茫」)

 話を戻す。
 70年代に吉田健一ブームを生んだものは一体なんだったのか。
 同時代に「発見」されブームになった作家はもう一人いる。
 川崎長太郎である。
 吉田健一川崎長太郎。一方は宰相御曹司の優雅な余裕派作家、一方は小田原の実家の裏の物置小屋に住む私小説作家…、共通するのは何もないように思える。
そこで吉田健一私小説的な作家だったと考えたらどうだろうか。



 1975年に発表された短編集『旅の時間』に収録された「ニュー・ヨークの町」は、本木という男がニュー・ヨークで過ごした一ヶ月間の話である。
 本木はその間、行きつけとなったバーでバーテンとの会話を楽しみ、ホテルで昼寝をし、夕方は料理屋に行くという毎日を繰り返して、夏から秋までの時間を過ごす。
 この短編は吉田健一が1963年に「FILM」という国際比較文学の学会に参加するために、ニュー・ヨークに滞在したときの経験がもとになっている。*1
 短編に出てくる酒場は、実際に吉田健一が「ニュウ・ヨオクにいる時、殆ど毎日行った」グリニッジ・ヴィレッジにある酒場がモデルだ(以下、引用は『定本 落日抄』「アメリカの酒場」より)。
 そこのバーテンは「映画に出てもいいだろうという顔立ち」で「ワイシャツの襟を開けて申し訳にその廻りに黒いネクタイを垂らし」ており、「この日の湿度が90度であることを教えてくれた」というから、短編に出てくるバーテンそのままである。*2
 短編最後のギャングとの遭遇のくだりを除けば、「ニュー・ヨークの町」は吉田健一の思い出をもとに、バーテンのキャラクターをふくらませて、吉田健一流の「お話」にしたものと言えるだろう。しかもそれは夏から秋へと「季節」が変わる奇跡的な一瞬を描いた、見事としかいいようがない短編に仕上がっている。

 身辺雑記をもとに書いた小説が全て「私小説」であるというのであれば、その「反私小説」的な姿勢に反して実は吉田健一もまた私小説的な作家だったといえるかもしれない。 
 しかし(当然ながら)そこに吉田健一川崎長太郎ブームの共通点を見るのは無理があるし、やはり吉田健一私小説作家ではない。


2


 一時期の川崎長太郎はある時期、一種のフリーク、「変なおじさん」として一定の需要があり、消費されたふしがある。*3
 吉田健一もまたその奇人ぶりで知られていた。印象的なエピソードをいくつか挙げてみよう。

  吉田健一福田恆存中村光夫三島由紀夫等と共に「鉢の木会」*4のメンバーだった大岡昇平は、会での吉田健一の酔態を次のように書いている。

真先に酔っ払ってしまうのが吉田健一で、くねくねと芋虫が立ち上がったような身振り手振りよろしく、頭のてっぺんから出るような大声が、室内を圧するのが常で、他の人間は口を利くひまなんかないのである。
大岡昇平「わが師わが友」以下の引用も同じ)

 大岡は素面の吉田健一を一応はフォローしてみせるのだが、

しかし素面の時は、イギリス仕込みの礼儀正しい少年紳士で、人に会いたいと思うとき、訪問するのは間違っている。よろしく相手をこっちへ招待して、断る自由を相手に与うべきだ、と教えてくれたのも彼なら、婦人の前でやたらズボンに手を突込んではいけないと戒めたのも彼である。

 しかし、読むものの印象に残るのは、滑稽としか表現しようのない吉田健一の姿である。

 それかあらぬか、彼はいつも両手をズボンを出して、体の上半身前方の空間に支えている。そしてシェイクスピアとブランク・ヴァースについて絶叫する時、それを急ピッチに頭上より高くあげおろしする。しかも両肱を離れないから、ひどく苦しげな姿勢になる。
 青山二郎は「よいよいの滝上り」と評した。またわれわれとはどこか発声法が違う声を「お寺の障子」といった。

 白洲正子もまた、吉田健一のことを懐かしく思い出しながら、

 私たちの間で「健坊」と呼ばれていたことは、どこか可愛げのある風貌の持ち主であったからだが、愛称にともないがちな軽蔑の念もいく分ふくまれていた。
 まず第一にあのとてつもない笑い声である。
白洲正子「変な友達―吉田健一のこと―」)

 と、その声の薄気味悪さからはじめて、爬虫類のような容貌、長すぎる手足、右手と右足、左手と左足が同時に前に出る独特の歩き方、並外れた馬鹿力、異常な食欲、卵も割れない不器用さなどの彼の常人離れした部分を列挙して語ってゆく。

 しかし面白いのは、この吉田健一本人の異様な姿が、彼の小説にはまったく反映されていないことだ。
 「鯨が潮を吹くようにゲロ吐い」たり、批評家・川村二郎の発言に怒って、いきなり呑んでいたグラスを机から落としたりと、吉田健一はその酒癖の悪さが有名だが、彼の小説の主人公たちは皆、悠々と節度を持って酒を呑む。決して乱れることはない。
 吉田健一自身と彼の小説世界の間には大きなズレがある。
 一般に吉田健一は「成熟」を書いた作家だと言われている。しかし実際の彼の姿を知るとこう思わずにはいられない。

 彼は「成熟」することを望みながら、「成熟」する「ふりをする」ことしかできなかった作家ではなかったのか?


3


 三浦雅士は『青春の終焉』なかで吉田健一を60年代以降の世界で「青春」/「若さ」という倫理が決定的に終わったことを熟知していた批評家として評価する。
 実際に60年代の熱が冷めてゆくのと入れ替わりに、吉田健一のブームが始まり70年代に絶頂を迎えたことは既に書いたとおりである。
 「若さ」のあとには「成熟」がくる。
 おそらく70年代の若者たちにとって吉田健一の小説は「成熟」というスタイルを示すロールモデルとなったのである。
 一方、70年代に同じくブームとなった川崎長太郎もまた一つのロールモデルだったはずだ。ただし、それは「若さ」のあとに「成熟」を目指すのではなく、あくまでも「若さ」にこだわり続けた場合のロールモデルとして。
 つまり吉田健一川崎長太郎は「若さ」の時代が終わった後の「成熟」に対する両極端なアプローチを示している。
 ところで、ここで強く言っておきたいのは、吉田健一が示した「成熟」のスタイルとは、シェイクスピアを原語で読めるような教養を身につけたり、昼間から優雅に酒を呑んだりするといったような表層的なものではない、ということだ。*5

 おそらく「成熟」のふりをしていた吉田健一にとって、「成熟」とは「ふりをする」ことそのものであった。



 『旅の時間』に収録された短編「飛行機の中」は、ペルシア領内にある廃墟の爆破をめぐる一風変わった短編だ。
 物語は主人公である谷村と同じ飛行機に乗った小人のような男が交わす高踏的な会話で綴られていく。飛行機はロンドンを出発し、日本に向かっている。
 ところで、この短編は1974年の1月に発表された。前年の10月には第4次中東戦争が勃発している(10月24日に停戦)。飛行機がアラビアの砂漠の上にさしかかったときに、吉田健一の短編の登場人物たちは次のような会話を交わす。

「こうしていると天下泰平ですね、」と谷村は言った。
「そう、地上では何が起こっていても」と小人が相槌を打った。

 主人公たちの足元には不穏な空気に満ちた野蛮な現実がある。彼らは何も知らないのではなく、知らない「ふりをする」。
 「ふりをする」ことは、『旅の時間』を貫くキーワードである。
 「昔のパリ」は1930年代、戦間期のパリが舞台である(つまり、ここにもまた野蛮な現実の影か落ちかかっている)。
 この短編には、ただひたすらワットーの絵を模写する男が出てくる。彼が描くのはどんなに本物の作品と近くなろうとも、本当のような「ふりをする」絵であることには変わりが無い。*6
 また「英国の田舎」には、妻が落馬で死んだにもかかわらず、それを信じない「ふりをする」夫の話がサイド・ストーリーとして挟み込まれる*7
 短編集の末尾を飾る「航海」にいたっては、自ら自分を死の窮地に追い込みながら、それを知らない「ふりをして」、豪華客船の旅を楽しむ老人が登場する。

 同じ短編集の「ロンドン」のラスト近くでは、吉田健一と現実との間の独特の距離感覚が垣間見えて興味深い。
 主人公・木戸は、酒場で知り合った相手とロンドンの川岸に行き、遠くの橋で乱闘のようなものが起こっているのを認める。

「あれが何だかお解りですか、」と言った。「あの辺のやくざどもがやり合っているんですよ。あんな様子じゃかなりの出入りでしょう。そういう時にはナイフを使うのが普通なんです、」というのは銃声が聞こえて来ないことに就いてのようだった。その人影はよく見ると幾つかでなくて相当な人数らしくてその中で河に落ちて行くのもあった。
(中略)
 それは遠くで起こっていることで葉巻の匂いに変わりはなかった。

 もし吉田健一が「貴族的」なのであれば、この見事な現実との距離のとり方をこそ貴族的と評するべきだろう。
 野蛮としか言いようがない醜悪な現実をただ「知らない」のではなく、無視する、つまり知らない「ふりをする」。「ふり」も最後まで貫けば、「本当」にはならないかもしれないが「本当のような話」にはなる。 「若さ」はあくまでも「本当」を追い続けるが、「成熟」は「本当のような話」を受け入れる。*8
 終戦直後の日本を舞台にした長編『瓦礫の中』の登場人物たちは、防空壕の中でさえも、あくまで優雅に振舞い続ける。どんな悲惨なエピソードでも吉田健一の手にかかれば、おかしみをもった「お話」に変わる。

  「ふり」でもいい。目を背けたいような現実のすぐ隣で、それでもなお品位を保ち、肯定的に生きること。
  それは単に貴族的な出自の人間だからできるという余裕あるスタイルではない。必死に守り通すべき命がけのスタイルなのである。  


5



 もし吉田健一が世間で言われているように「貴族」であったとするのならば、いまを生きる私たちもまた同じように、ある種の「貴族」であると言っていい。

 満員電車や、早朝から夜遅くまでの仕事「さえ」我慢さえすれば、自由にできる時間と金が手に入る。*9夢を追わず、無理をせず、感情を殺し、要領よく、現実的に生き「さえ」すれば、生活は何とかなる(ように思える)。実存的なことに悩む余裕があり、好きなことをする時間も充分にある。1200円のランチを食べれば、お手軽に「優雅」になれる。要するにすべては気の持ちようということで、「生きている喜び」を感じたいのであれば、幸せな「ふりをする」ことが大事なのだ。

 繰り返す。吉田健一が「貴族」ならば、私たちもまた、この馬鹿馬鹿しい現実のなかで「貴族」だ。

 そして貴族であるがゆえに、私たちは言いようのない倦怠を感じ、心の中心にぽっかり空いた穴、欠落に気がつかずにはいられない。
 その欠落に対して、ふつうの文学はどのような態度をとろうとするのか。
 その分かりやすい例が、村上春樹の短編「アイロンのある風景」のなかにある。
 自分を取り巻く現実に違和を感じて家出をし、現在サーファーと同棲している順子という登場人物が、海辺で焚き火をしながら、三宅さんという風変わりな知り合いに自分の心情を告白するクライマックスのシーンである。

「ねえ三宅さん」
「なんや」
「私ってからっぽなんだよ」
「そうか」
「うん」
 目を閉じるとわけもなく涙がこぼれてきた。涙は次から次へと頬をつたって落ちた。順子は右手で三宅さんのチノパンツの膝の上あたりをぎゅっと強く握りしめた。身体が細かくぶるぶると震えた。三宅さんは手を彼女の肩にまわして、静かに抱き寄せた。でも涙はとまらなかった。
「ほんとに何もないんだよ」と彼女はずいぶんあとになってかすれた声で言った。


 美しいシーンだが、陳腐だ。いや美しいからこそ、陳腐である。
 誰もが欠落を抱えている*10
 対処法は人それぞれだが、少なくともその欠落に「悲しみ」や「切なさ」や「苦しさ」などの負の感情を投影するのは、「文学的」ではあるが、「現実的」ではない。
 ここで、孫引きになるが、吉田健一の言葉を引きたい。

 そこにあるのは裸の池であって、そこに深淵が覗いていると思うものは精神に異常を来しているのに過ぎない、といったようなことを吉田健一が書いていたはずである。
丹生谷貴志「死者の挨拶で夜が始まる』「「深淵」の誘惑への戦い」)

 この言葉が本当に吉田健一が書いたものであるかどうかはこの際どうでもいい。
 おそらく吉田健一が「アイロンのある風景」の順子を前にしたら、「静かに抱き寄せ」る代わりに、ただ「そのからっぽは、ただのからっぽに過ぎない。そうしてまた時間はたつて行く」とでも言ったに違いない。




 吉田健一は「余生の文学」のなかで次のように言い切っている。

文学がなくても誰も困りはしないのである。先ずそのことから文学を見直す、或は考え直さなければならない。

 しかし、これは彼自身には当てはまらない。吉田健一は生きるために「文学」を必要としたのだから。
「ふりをする」ということは「役割を演じる」ということである。
 彼が生きるために(「ふりをする」ために)選んだスタイルが「成熟」であり、また「文士」というものだった。
 ケンブリッジ大学留学中に「文士」になる/を演じることに決めた彼は留学生活をたった4ヶ月で止めて、日本へと舞い戻ってくる。そして、その後の彼は、文士らしく(?)徹底的に浮世離れした「変なおじさん」として振舞い続けた。
 「ふりをする」こと、それは「平坦な戦場で僕らが生き延びる」ための、ひとつの方法論である。
 凶暴な現実と隣り合わせでありながら、貴族的な倦怠に包まれ、目が覚めてから、眠りに落ちるまで(いや就寝が明日の労働のための体力の回復を目的とするならば、寝ている時間さえも)すべてが労働となる、この馬鹿馬鹿しい世界のなかで、私たちが自分自身の魂を守るには。

 吉田健一の小説は、それをテーマやメタファーでなく、一つの確固たるスタイルを通して啓蒙しようとしたのではないか。
 だから、そこには役に立つ「情報」や、お手軽な「面白さ」や、現実逃避のための「ユートピア」は見当たらない。


 吉田健一の小説は、貴族的で浮世離れしたものでは決して、ない。
 それは馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための、極めて現実的、即物的な処方箋である。

*1:この学会に吉田健一を推薦したのがドナルド・キーンである。

*2:なお主人公が旨そうに呑む赤いカクテルはウォッカに赤いトマト・ジュースを入れたブラッディ・マリーであり、これについては、吉田健一と一緒にカクテルを呑んだ佐伯彰一が「二十世紀と文学」という対談で楽しげに回想している。

*3:(誰が書いていたかは失念したが)かつて大学生が文芸誌に掲載された川崎の短編を「まだ、こんなことをやっているよ」と笑いながら読んでいた時代もあったらしい。

*4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E3%81%AE%E6%9C%A8%E4%BC%9A

*5:だから吉田健一を「貴族主義的」と評し、「金持ちで自分が豊かだからほかのことはどうでもいい、というところのある文章なんですね」(「文藝」2006年夏号)と分かったような分からないようなことを言って安心しきっている高橋源一郎氏の物言いには強い反発を覚える。

*6:しかもこの短編のワットーの絵は、じつはルーヴル美術館に存在しないという「落ち」がつく!

*7:落馬による唐突な死というのもまた野蛮な「現実」である。

*8:フリッパーズ・ギターも歌っている。「ほんとのこと知りたいだけなのに夏休みももう終わり」。

*9:ちなみに吉田健一は酒を呑む金を作るために借金し、馬車馬のように働き、結局は体を壊した。私たちとまったく同じである。

*10:ジャック・ラカンに言わせれば、それは私たちが「言語」を使うがためだ。