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「飲み助の離人症状なのか?」極楽寺坂みづほ


この人はたいへんな飲み助である。もう、理屈抜きで飲むのが好きだということが、同じ飲み助の身にはひしひしと伝わってくる。実際、ほぼどこに行っても彼は飲んでいる。


「彼は」と言っても体裁上は同一人物ではなく、「谷村」→「村山」から始まって「川西」→「西野」に至る「名前リレー」が展開されているわけだが、この、「名前などどうでもいい」というあからさまな名前軽視の態度により、それが吉田自身であることが逆に際立った形で示されている。「併しこれから自分の話を始めるのではない」などとなぜわざわざ断るのだろうか。そこに注意を促すことで、本当は自分のことだと気づいてもらいたがっているとしか思えないのだが。


それはともかくとして、「彼」はどこに行っても酒を飲んでいるわけだが、決して守るべき節度を踏み外さない。ウォッカベースのカクテルをたてつづけに5、6杯飲んでも、多少クラクラしながらも恬然としている。そこが僕と違う。僕はわりとすぐにへべれけになってしまうし、むしろへべれけになりたくてわざわざ飲んでいるようなところがある。  ただ、逆に僕がどうしてへべれけになりたがるのかというと、それによって世界が普段と違った見え方をするそのドライブ感を満喫したいからなのだ。そう考えると、レベルこそ違えど、実は吉田健一も同じものを求めて酒を飲んでいるのではないかという気持ちになる。


この人は、「世界の変容」に敏感な人である。申し訳ないが、「どの部分が」といったあたりを具体的に指摘する余裕が、今はない。なにしろ、読み通すだけで相当量の時間およびエネルギーを奪われてしまったからだ。したがってここではあくまで「印象」レベルの記述に留めるが、「世界の変容」は、彼にとって大きなテーマのひとつであると目される。つまり、主観にとっての世界が何をもっていかにシフトしていくか、ということだ。

 
自分を取り巻く世界のたたずまいが、文脈に応じて、また意味作用のレベルで、CGを使った特殊効果のように移ろいゆくさまを、この人は折々に絶妙巧緻な文体によって表現している。それはなにも、アルコールの力によってのみ引き起こされる変容ではない。第一義的には、旅先にあるという特異な状況のなせるわざだろう。そこには、「住む」ことと「いる」こととの間の緊張関係のようなものが常に暗示されている。


しかし僕には、その変容の感覚が、酒の力によっていっそう研ぎ澄まされているように思えてならないのだ。つまり、もしも彼が飲み助でなかったとしたら、いくら国内外あちこちの土地を訪れたとしても、その経験をこのような形で作品にまとめることはできなかったのではないかと。


ところで、この『旅の時間』を読み終わった後に、執筆資料として『統合失調症あるいは精神分裂病』(計見一雄・著)という本を読んでいたら、はからずも吉田健一についての言及があって、「おお、シンクロニシティ!」と思わず心の中で叫んだ。統合失調症患者の幻覚妄想状態が、つまるところは「現在に生きることから閉ざされた状態」なのだということを説明するくだりで、吉田畢生の著『時間』における、「現在を失い時間を見失うこと以上の大きな不幸はない」という叙述が引き合いに出されているのだ。


たしかに、世界の変容を経験する谷村山田坂本木戸川西野氏の感覚は、今、自分自身が現存している「現在」にのみ依存している。それはデジャヴュのようなもので、一瞬先にははかなく消えてしまい、もう取り戻せないなにかであるという気がする。


しかし同時に、僕は思うのだ。彼のその感覚は、「離人症状」にも似ていなくないのではないかと。吉田健一は、いくぶん、統合失調症患者に似たところがあったのではないかと。


そして最後に、これが「小説」としておもしろいかどうかと言うと、はっきり言って、僕には一向におもしろいとは思えなかった。どこが「おもしろみ」と言われているのかは、わかる。しかし、僕にはおもしろくない。単に、こうしたものを味読するには、忙しすぎるのかもしれない。しかし仮に時間がありあまっていたとしても、自分が好き好んでこれを手に取ることはないのではないか、と思う。

強いて言えば一番好きな一編:『大阪の夜』 理由:性的交渉可能な女が出てくるという意味で唯一色気のある作品なので。また、女のどこか妖怪っぽいありようが内田百ケン的で比較的ツボだったから。