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U研って何?メンバーこれまでの歩み活動レポート掲示板リンク集

「神保町の夜」


 まず一つの読書会がある。その辺りから話が始まってもいい訳である。この場合その読書会の名前は無頭人でも黒後家蜘蛛の会でもよくてとりあえずここではU研ということにしておく。その会は同じ職場のメンバーでもう9年間も続いていてその間にも職場には毎年どんどん新入社員が入ってくるのだが大概の新人は極楽寺坂さんにサインを貰うにとどまってそれでU研のメンバーが増えたりすることはない。会長に人徳がないのか。


 先週の金曜日には2、3ヵ月ぶりの読書会があって待ち合わせ時間の6時20分にJR御茶ノ水駅の改札前には幹事の辻以外の誰もいなかった。これもまた全て人徳のためだとも言えてそうなると一人で黄昏の光がキオスクの壁の色を濃くしたり薄くしたりを繰り返しているのを見ているうちにただそうして時間はたってゆく。辻の向かいにいるやはり人待ち顔の少し地味目のOLさん3人組をランチョンに誘ってもいいのか。そうしてしばらくすると極楽寺坂さんが来た。


 結局一次会のランチョンに集まったのは5人で神保町の辺りは既に暗くなっていた。


「最初はビールでも、というわけですか、」  
「こっちにはティオ・ペペを、」
「ここは賑やかですね。当時はどうやってここで打ち合わせをしたのか、」
吉田健一というのは、コメディアンの顔でしょう、」
ローワン・アトキンソンですか。」
「そう。そして一族のなかでも、ちょっと変わった人で、」
植草甚一ですか。「僕の叔父さん」の立ち位置でしょうか、」
「アヤヲ会長はレポートでヨシケンを全否定ですか、」
「やめときましょう。酒がまずくなる」
「そしてやはりこのビーフパイは旨い、ですか、」


 そうしているうちにふと辻は自分が山の上ホテルのモンカーヴにいることに気がついていつのまにか奈保千佳さんと月立さんが加わっていてもそれがU研の全メンバーが揃ったことであるならばその異変に気を取られることもなかった。初老の給仕が持ってきた葡萄酒を飲みながらフランス麺麭と手毬寿司を食べていればそれは炭水化物をおかずに炭水化物を食べていることになる。そこの葡萄酒は葡萄酒の味がして炭水化物は炭水化物の味だった。


 モンカーヴではそれぞれに『旅の時間』の感想を言ってもらって辻が怪気炎をあげたのはともかくとして奈保千佳さんの吉田健一は飛行機好き、いや飛行場好きでは?という指摘はするどくて吉田健一もどこかのエッセイで自分が飛行場好きであることを告白していた。極楽寺坂さんは作品の旨さは認めつつも小説として面白くはないという結論でid:URARIAさんは終始歴史萌えで吉田健一でなく白洲正子に気を取られて月立さんは小林秀雄の興味から吉田健一を読んだ時の印象が『旅の時間』で好転したと言ったのが面白くてそれは給仕が新しい葡萄酒を皆のグラスに注ぎ終えたのと同時だった。


吉田健一は都会の人なんですよ。その証拠に、」と内海さんは言った。
「都会が舞台の短編だと『冬のパリ』、『神戸』、『大阪の夜』とタイトルが、その都市の名前になっているでしょう。けれど田舎が舞台になると、」
「単に『英国の田舎』ですか、」とその代わりにid:URARIAさんが言った。


 最後に発言したアヤヲ会長は『旅の時間』が発表された1974年前後の芥川賞作品の素晴らしさを語るだけで吉田健一については一言も語らなかったがそれはアヤヲ会長が何も語らなかったということにはならなくて何かについて何も言わないのは何かについて全てを言っているということ同じでそうでなければ文学というものが存在する意味はない。


 辻は辛口の葡萄酒のグラスを置いて宇宙に浮いているような気分だった。モンカーヴを出た後のことは辻はよく覚えてなくて山の上ホテルのモンカーヴも広いロビーもすべてランチョンからの一部と言えてこのようなときにはじめて人は自分の人生を生きていると言える。ではそれ以外のときは死んでいるのか。


 もうU研の他の6人は席を立っていてあとは山の上ホテルを出るだけだった。辻は山の上ホテルの別館ロビーを抜けて春の生暖かい風に吹かれながらあのOL3人組は今頃どうしているのかと思った。(了)

旅の時間 (講談社文芸文庫)

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