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ベトナムの光彩〜結城昌治「ゴメスの名はゴメス」を読んで〜 松浦綾夫

ベトナムの光彩
結城昌治「ゴメスの名はゴメス」を読んで〜

松浦綾夫

 紀元前1世紀から中国に支配されたベトナムは安南と呼ばれ、19世紀にフランスの植民地となり、その後日本の支配下に置かれた。戦後、南北にひきさかれ、米ソ対立の主戦場と化し、そのあいだ枯葉剤の散布など、近代戦争の実験場となった。

 つまり、生半可な国ではない。ずっと支配されどおしの国としてあった。

 マルグリット・デュラスの「愛人」は、フランス植民地下時代のベトナムに住んだ少女(デュラス)が年上の富裕な青年に抱かれる話だった。

 開高健の「輝ける闇」にもベトナム戦争の従軍作家を志望した「私」が現地の若い娼婦と濃密な性愛をくりかえす。

 「ゴメスの名はゴメス」もまたたいそうエロティックな小説だ。

 冒頭、日本からベトナムへ来たばかりの「わたし」が会社の同僚・香取をたずねて出てきたのは、二十歳くらいのリエンという女だった。香取の現地妻だったようだ。実は「わたし」は香取に気づかれないよう香取の妻と関係をもっていた。そして、黒い髪を長く伸ばし、黒い瞳が印象的な、どこか子どもっぽいリエンを最後には「わたし」も抱く。フランス人とベトナム人の混血であり、ダンサーであるヴェラ(娼婦であり、のちにスパイとわかる)とも「わたし」は官能的なデートをする…。

 幾重にも、肉が重なる。しかも、実存がかかった交わりだ。

 なぜベトナムはこうもエロティックなのだろう。

 ベトナムという国の支配・被支配の歴史。隷属した人々の怒りやゆがんだ心性は「ゴメス」のなかでもあちこちで滲む。だが、全体の鍵をにぎる兵隊帰りで一度は死んだ記者・森恒が魅せられたように、ベトナムの明るい陽射しと熱帯植物の繁茂が、まがまがしいまでの健康さが、その暗鬱さを忘れさせてしまう。東洋人らしい黒髪に黒瞳の、南国的な色鮮やかなアオザイに、安南陶磁のような白い歯をのぞかせ人なつこい微笑みを浮かべる女たち。「紫、金、真紅、紺青、ありとあらゆる光彩が今日最後の力をふるって叫んでいた」(「夏の闇」)と開高健が描いたベトナムの夕陽。陽光あふれる土地に生きる、健康な肉体をもつ女たちとねじれ、軋み、傷んだ家=国のありかた――。

 「ゴメスの名はゴメス」では、見えざる敵に追われるようになった「わたし」が、ベトナムの背後の、もっとおおきな「帝国」間の対立や策謀に巻きこまれてゆく。おってもおってもとかげの尻尾きりのように、敵の正なる姿は見えてこない。「わたし」は結城昌治のほかの作品の主人公のように、愚直なほどに、誰彼となく、話を聞きまわる。聴く。「暗い落日」から「軍旗はためく下に」までつらなる、聴く、という流儀だ。

 「わたし」はこれから始まろうとする戦争、そして日本が植民地統治した時代の、もう終わった戦争、ふたつのねじれのなかで翻弄される部外者である日本人の立ち位置が描かれる。リエンは可憐だ。生い立ちからして不幸で、ただ養父のいうままに男に抱かれるしかない。その生をうけいれることしかできない。その肉体こそベトナムの姿とかさねられているのかもしれない。結城昌治の小説の<女たち>は運命的に悲運をおわされ、しかし気高く生きようとする女たちが多い。そういう女は小説のなかで美しく輝く。

 これは日本のスパイ小説の嚆矢とされている。だが、そうした結構よりも、ベトナムで 「わたし」が出会う人々の、生まれた国や出自によって異なる信条、さらに人間が存在すること自体の不気味さ、個人が生きることの不在感のほうが強く印象に残る。

 「軍旗はためく下に」でかなり早い時期に戦時の日本兵の加害者としての行為を、聞き書きというスタイルであらわした結城昌治の問題意識は「ゴメスの名はゴメス」にも揺曳している。日本の戦争、ベトナムの戦争、二つのパラレルな戦争のあいだで、一個の人間の生をこえてしまうおそろしいもの、暗い影が、どこまでもつきまとってくる。

 呼びかけている。