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「『ヒューマン・ファクター』についてのメモ」極楽寺坂みづほ

 直前に読んでいたのがたまたまイアン・マキューアンの『贖罪』だったので、期せずして現代イギリス文学をたてつづけに2作読むことになった。前々から思っているのだが、イギリス文学と日本文学の土壌はわりと近いと思う。村上春樹後の今でこそ、アメリカ文学的なテイストが国産小説群の中にも拡散してきているが、それまではむしろ、イギリス文学のこのまじめさというか、地味さというか、ていねいさというか、静けさというか、そうした持ち味こそ、日本文学が共通して持っていた大きな特徴のひとつだったのではないか。
 そのまじめさというのは、いわば、彫像の裏など、ほとんど人が通らない場所の植え込みでも、手抜きをせずにていねいに刈り込む律儀な庭師の仕事、とでもいったものだ。決して情に流されず、着々と、均質な仕事を隅々までこなしていく感じ。誰も見ていないかもしれないのに、決して細部をおろそかにはしない。
 グレアム・グリーンは初読だが、ぼんやりと、「探偵小説だか推理小説だかを書いている人」程度の認識しかなかった。『ヒューマン・ファクター』を読んだ今は、自らのその不明を断罪したい気持ちでいっぱいである。こんなおもしろい小説を書く人なら、もっとずっと早くに着目していてよかった。
 この場合の「おもしろい」は、"exciting"というよりは"interesting"に近い。ワクワクドキドキ的な要素ももちろんあるのだが、作品全体を貫くこの奇妙な静謐さが、展開を、結末を知ろうとして加速する読みに、常に一定のブレーキをかけようとする。こういう不思議な持ち味の小説を、初めて読んだような気がする。
 そしてその「ブレーキ」とは、常にペースが乱れることのない、細部の入念な描写である。特に印象に残ったのは、会話だ。なにげない言葉のやりとりを描写することに、グリーンは非常な慎重さをもって臨んでいる。
 それはときに、あまり意味がない言葉の応酬であるように見える。しかしそれはあくまで、「スパイ小説」としての話の本筋や、謎解きという観点から見た場合の話であって、トータリティとしての作品の完成度から照射するとき、ムダな台詞などは、実はひとつもないと思うのである。すべてが、その台詞を言う人物の人となりを語り、会話を交わしている人物たちの間にある空気を語り、作品世界の雰囲気を醸す必要不可欠な構成要素になっている。
 そうか、会話というのはこのように書けばいいのだ、と気づかされると同時に、それが一朝一夕に会得できる技術ではないことを思い知らされもする。
 この小説は、筋だけを追っていっても、いわゆる「スパイ小説」として十分に楽しめる作りになっている。しかし、それを電車に乗っている間の暇つぶしにしかならない凡百の娯楽小説からはるかに隔たった高みへと押し上げているものは、台詞の応酬をはじめとする細部の丹念な積み上げによって彫琢された、物語世界の奥行きと深みなのだ。こういう美しい小説を、私は書きたい。

極楽寺坂みづほ)