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「黒い時計の旅」を読むための覚え書10章 松浦綾夫

――「俺が神話を変えてやるよ」(バニング・ジェーンライト)


1 アメリカ→ヨーロッパ→アメリカへ


 アメリカからオーストリア、ドイツ。そして、再びアメリカへと帰還する主人公バニング・ジェーンライトの旅の道程はなにを意味するのか。アメリカというフロンティアに、ドイツ第三帝国の侵攻・植民地化という新たなフロンティアの歴史が重ねられているのか。
  
 インディアンとの混血児である主人公の出自とナチスの人種政策におけるユダヤ人迫害の問題も照応している。


 新しい歴史を持つ国から、古い歴史を持つ国への歴史の辿りなおし・再生の旅。あたかも時計の針を逆回転させるように。


2 個人の暴力と国家の暴力


 聖書的な主人公の兄殺し。間歇的に暴力的な衝動に襲われる主人公の行動と、ドイツの大陸戦線の拡大。ヒトラー総統の心の闇と主人公の心の闇。一個人の殺人と軍隊による殺戮の対応。個人と国家の暴力が等しくつりあっている。


3 物語の語り部


 古代、物語は王に仕える家来が、国家をたたえるため奏上するものであり、時として為政者に都合のよい歴史を捏造するためのものであった。近代にいたるまで、作家のポジションとはそういうものであった。


 主人公の書く物語はある時期から総統Zのためだけに書かれる。印刷技術の発達により、量産されるメディアとなった物語を、ひとりの王のために書き継ぐという始原に立ちかえらせることで、物語の起源を問い、物語の発生した歴史をも遡行する。そのことは現実と虚構が入れ子状に進行するこの物語と私たちが読むエリクソンのテクストをも、大きな物語に回収されることを意味している。


4 戦争とポルノグラフィー


 国家間の戦争が利害関係の対立から始まり、やがて破壊や殲滅の衝動・欲望にとらわれるように、性欲もまた他者を侵犯しあうものに他ならない。性があり次代に子孫を育むからこそ保存のための闘争が行われる(国家は存続を賭ける)。まさに性と戦争は等号でむすばれる。


 ポルノグラフィーは人間の性欲を抑える・代償する読み物として存在する。そこには戦争同様、無惨な男女の(愛を伴わない)痴態が展開するだけで、意味はない。どんなにひどいことが行われようとも倫理より先に、ただ結果だけがある。いわばポルノとは欲望のための欲望でしかなく、消費されるためのものでしかない。


 戦争を差配する王が個人蔵のポルノを書かせ続けるという営み。そこには蕩尽・消費される大きな2つの物語―戦争とポルノ―が交叉する。


 ※例えば、高橋源一郎ジョン・レノン対火星人』を参照のこと


5 物語という身体


 くりかえされる受胎と出産のイメージ。歴史とは、端的にいえば、子をなして、次代に受け継ぐ…そうしたツリーであることを執拗にくりかえす。しばしば時間の流れもまた子を産むことに重ねられ、時間と身体の壁を超えようとあがく。


6 姿を隠す王


 総統Z、アドルフ・ヒトラー。この物語の王は最終章まで姿をほとんど見せない。主人公とのウィーンでの最初の会見は未然に回避されている。老齢になってから、現実の歴史には登場しない姿を見せるだけで、全盛期の本人の描写は極度に省筆されている。なぜか。


7 読むことができないテクスト


 主人公はいったいどんなポルノグラフィーを書いたのか。ヒトラーとゲリの交情を綴ったポルノであればぜひ読んでみたいが、いっこうに本文は登場しない。直接的な内容も出てこない。凡百な作家であれば、ここでテクストの部分を挿入したりするはずだが、最後までポルノは一文もあらわれることがない。なぜか。


 王と物語――2つの姿を見せない鍵はそのまま『黒い時計の旅』=母胎の秘所となるのではないか。


8 描写がない物語


 人物、風景ともにふつうの小説の多くをしめる視覚描写が極度に少ない。そのためしばしば読むのが苦痛になるほど、具体的なイメージを伴わないこともある。粗雑でちぐはぐな文章が(わざと)積み重ねられている。たとえはウィーンやベルリンの街並みが上手に書けているかというと、特徴的なはずの街の魅力はまったく欠落している。この物語の夢魔が支配するかのような全編の時間の流れ、語り口を夢幻的にする効用を狙っているのだろうか。


9 幻視する歴史・物語の書き換え


 『黒い時計の旅』はもうひとつのヨーロッパ史を幻視する。ドイツが第二次大戦に負けずその後も君臨していたら…というパラレルな現実をつくりだす。


 この手法は考えようによっては安易である。日本がポツダム宣言を受諾せず、本土上陸をうけいれ戦った結果、米ソに南北分断され、抵抗する兵士たちは地下に潜り戦いつづける…(村上龍『5分後の世界』)、あるいは関ヶ原の戦い徳川家康率いる東軍が豊臣方の西軍に敗北し、江戸は栄えず大阪が文化の中心圏として繁栄する…


 そうした「もしも」小説はあまり意味がない。史実は史実である。仮構の歴史を事実にそわせることは、史実をみとめる厳粛さから遠い。


 もうひとつのヨーロッパ史を構想し、幻視するのは勝手だが、いくらでも幻視できてしまうし、こうした物語は無数に作ることが可能である。歴史自体が一個の生命体として蠕動し、捻転し、無限に増殖する…そんな一断片がこの『黒い時計の旅』だとしても、なんの意味ももたないだろう。私はアメリカ側からの歴史の焼き直し、という点で、この作品は歴史を軽視していると思えた。どこか史実への畏敬や尊崇の念が欠けているのである。


 同じことはアメリカ大統領のトマス・ジェファーソンと黒人奴隷だったサリーとの愛を軸にアメリカそのものを描いた『Xのアーチ』のときも感じた。幻視し、物語を増殖すれば、いくらでも書けてしまうし、歴史は書き換えられる。私はこのエリクソンの作家としての態度には奢りを感じる。歴史への哀悼も、真の情愛も、欠ける嫌いがある。


 老いさばらえ孤独死する、かつての王だったヒトラー。そのこれでもかと言わんばかりに老醜を直視する描き方に、なにかいたたまれない気分になった。ヒトラーを唾し、殴打する主人公の姿は、そのまま弱い者をいじめるかつての統治者の姿にダブらせているならよいが、よもやナチスの犠牲者の溜飲を下げる代弁者になってはいないか。ならば問題は堂々めぐりだ。


 腕時計の針をまきなおし、すすめてみる、あるいはダブルフェイスの時計にするのも勝手だ。だが、歴史をあやつるにはその手つきに物語を弄するたくらみ以上に、私たちが暮らす現実との渉りあいが必要だ。


 この作品にはヨーロッパへの、本当の意味での鎮魂が欠けている。


10 ヨーロッパ・ヨーロッパ


 白水Uブックスにはヨーロッパの歴史をあつかった小説がたくさんある。これまで読了し、読書会でとりあげた作品を参考にあげるので読み比べてみてほしい。歴史を書く作家にとって、歴史認識のあり方や責任がどういうものか。下記の諸作と『黒い時計の旅』にはちがいがあることがはっきりわかるだろう。

・エミリオ・ルッス『戦場の一年』
カルヴィーノ『木のぼり男爵』
ヨーゼフ・ロート聖なる酔っぱらいの伝説』など


(了)