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「XからZへ―――やっぱりアメリカの危機?」 nahochika       


 スティーヴ・エリクソン。あのピンチョンが絶賛したという作家の作品ということで、軽妙なパラレルワールドが展開されるのでは? と期待してチョイスしてみた。


 しっかし、この人に関しては言葉遊びやパラレルワールドを行き来するための軽妙な仕掛けに力点を置いてはいない。愛も憎しみも深い。性も死もリアルだ。


 にもかかわらず、この作品は、やはりピンチョンの作品と同様に、アメリカという存在そのものの崩壊を示唆しているようでもある。


 アメリカとドイツ。第二次世界大戦後、この二つの国は全く別の20世紀を歩んだ。しかし、根っこはそんなに違わないのでは? という恐怖に基づく問題提起がこの作品かな。



 とりあえず、歴史的なことはおいといて、エリクソンの小説世界を考えてみる。なにしろ触れるのが初めてなので。


 前半の語り手であるマーク。マークが語り手であるときの世界は叙情的だ。美しく切ない。サムソン島を往復する船。老船長とのやりとり。木に死体をつるしたくないという情。カタカタと船底で音を立てるジーノ老人の屍。夜空、等々。マークの切ない母恋、といったロマンチックな世界が広がる。


 うーむ、わりとウェットでなんだかラテンアメリカ文学の匂いがする。ボルヘスっぽい感じを受けた。


 場面は変わってアメリカ。バニング・ジェーンライトが物語の軸となる。大男で赤毛の彼は1917年生まれ。インディアンとの混血である。バニングは出生の秘密を知ったことがきっかけで、家族を殺し、火を放ち家を後にする。このあたりから最初のトーンとはうって変わってストーリーは残酷に、そして憎しみに時に愛に満ち、より生々しくなり混沌としてくる。


 結局、バニングは家族殺しのせいでアメリカを追われることになる。これはインディアンの追放? うん、メタファーだ。依頼人Xがヒトラーだとすれば(普通に読むとZ=ヒトラーだけど、ヒトラーがXの理由は後述)、バニング・ジェーンライトは誰になるのだろう…。悪夢が生み出したアメリカ版のヒットラーなのか?



 誰もが指摘する通り、この作品の時間軸はばらばらだ。死んだものが生きていた頃の自分を振り返って話をする。「黒い時計の旅」とはすなわち死者にとっての記憶(時間)を意味する。死に際のフラッシュバックのように(死んだことがないから、分かんないけど…)ポイントとなる時間と世界に瞬間移動する。それは死者の視点を超えて神の視点でさえある。


 そう、これはもしも20世紀を操る神様がいるならば、20世紀をこんな風に幻視していたのであろうという話。それに尽きるのではないか。


 いずれにしても、この時間や空間を超えた世界の鍵を握るのは憧れのまたは愛した女性の存在。随所に出てくるヒットラーの姪ゲリ。バニングの妻メーガン、そしてファムファタールのデーニア。デーニアの踊りを盗み見ると人が死ぬ…。


 なんだか分けわかんない設定だが、この「美人」ではないが(作中で、何度もデーニアは自分が美人でないことを確認する)男をひきつけてやまないデーニアにジェーンライトは復讐のためにヒトラーの子を妊娠させる。このあたりの身勝手なオスっぽさ全開+愛憎はフォークナーぽい。



 そもそもXとZって誰なんだろう?――― 具体的な名前についてはっきりとは書かれていない、この二人の人物について推測してみたい。


 まず文脈からは、X=ヒトラーの部下、Z=ヒトラーと読むことができる。

バニングに仕事を直接依頼していたXは途中からZのしもべとして行動することになる。(P169)


しかし、私にはどうしてもX=ヒトラーそのもので、Z=ヒトラーの意思、またはバニングの妄想というように思えてならない。


バニングが記憶する1948年の記述でXが死んだらしいということが語られている。(はっきり何年に死んだとは言っていないが。)

どうやらXも死んだらしい。この俺が殺したんだ、そう考えて私は気をよくする。(P226)


 ここで実体としてのヒトラーの存在は消滅する。その後、残ったのがヒトラーの亡霊でありバニングの妄想でもあるZの存在と考えたらどうか。


Zが実体のないものであると推測する他の理由は、以下の通り。

Zがラジオで全ヨーロッパに向けて演説を行う。たいていの場合、それは明らかに10年前の演説の録音である。(P226)


 Zとは生きていた頃のXであって実存しないのではないか。

殴られて腫れあがったZの顔をみても、医者は何も言わない。血についても何も言わない。こうして私は悟った。Zは私のものなのだ。(P324)


 医者にはZが見えていないのではないか。殴られ顔が腫れているのはバニングなのではないか。ここから、Zはバニングの妄想であり、バニング自身であるとも考えられる。


 Zの意思がバニングの妄想であるとするなら、これは結構、怖い話だ。


 Xが死んだ後のZは魂がぬけ、もぬけのからと化した老人として描かれている。下の世話も人にしてもらうような状態だ。


 Zはバニング共にドイツ→ウィーン→アメリカに行く。これはバニングの辿った道と全く逆の経路だ。Xによってアメリカからウィーン、ドイツに渡ってきたバニングがXの死後、その意志であるZとともに戻ってくる。


 ここに作者の意図するアメリカの危機が啓示されているのではないか。


 文化的、歴史的背景からも共産主義よりは確実にナチズム的なものが生み出されやすい土壌を持つアメリカ。エリクソンはそんなアメリカの澱を錯綜する視点でもって具現化しようとしている。そういったカオスを情念に偏りすぎず軽妙になりすぎず、絶妙なバランスで描けるのはエリクソンのすごいところだ。読了した今となってはそう思う。