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これがどんな小説かっていうともう「わかってくれるさRCサクセション」? 南野うらら


黒い時計の旅 (白水uブックス)

黒い時計の旅 (白水uブックス)


 あのー…これ…次の読書会の課題テキストなんですけど。

 
 398ページもあるんですけど!

 
 読み終わってまず言いたいことは「これはサラリーマンが通勤途中に現実逃避するために読む小説ではない」(私はそのつもりで読んでいるのに)

 
 しかし


 「確かに傑作」


 そして


 「村上春樹エリクソンを意識しているのかどうかはわからないが、彼が『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンを出して語ろうとしたことと、『海辺のカフカ』で何を実験しようとしていたか分かるような気がする」


 とはいえ


 「この小説をすらすら読み終わって、<ああ、面白かったヨ>などと言うような奴がもしいたら絶対友達にはなりたくない」


 でも


 「『黒い時計の旅』の大日本帝国あるいは中華民国バージョンがあったら読みたいようー!!!(想像しただけでどうしていいかわからなくなるよぅよぅよぅ!!)」


……そんなところです。


 はっきり言ってちゃんとした起承転結とか読後の爽快感を期待する人にはお薦めしません。



 でも私は好きだよ。


かくして私たち三人、歴史の地獄神と、彼の夢の作者と、その翻訳者は、年老いて体の動きもままならず、誰にも見られることなく、イタリアのどこかのじめじめした地下室で暮らしていた。私を何よりも嫌悪させたのは、時間が依頼人の悪を弱々しいものにしてしまったことだった。

(中略)

こうした人間性を、歴史はいかにして耐えるのか、私にはわからない。歴史はもうずいぶんもう長いこと、あらゆる人間は救済可能であると主張しつづけてきた。だがそもそも救済ということを、人はこの後どうやって信じるのか、私にはわからない。ここにいるのは、絶対に救済できない一人の人間だ。しかし、かつてのさまざまな出来事をめぐる私の記憶の中で、私はいまや、彼以上に彼になっている。


 主人公バニング・ジェーンライトの書く官能小説を高額で買い取る謎の人、「依頼人Z」。その名は作中で呼ばれることはありませんが、ヒトラーのことだと読者はすぐにわかります。


 この小説は、俗っぽい説明をすると“ヒトラーもの”であり、芸術と政治の接近と衝突を描く“詩人と皇帝”ものです。(…たぶん)。


 作者のヒトラー観の根底にあるものは日本の水木しげるの漫画『ヒトラー』とか手塚治虫アドルフに告ぐ』に近いのではないかと私は思いました。ヒトラー人間性を排斥することなく悪を直視しようとするもの。(西洋ではヒトラーに人間的な含みを持たせると「ヒトラーを擁護するのか」ということで批判は出るらしいです。(昨年公開のドイツ『ヒトラー最後の10日間』でもそういう批判があった))。


 基本にドイツが勝利する20世紀というパラレルワールドを提示して、作中の小説家が描く虚構の世界が読者の知る現実の20世紀に繋がっており、実は虚構+虚構=現実?という風に読者を混乱させつつ巻き込む凝ったつくりです。


 ヒトラーは作品に登場する女を、自分のかつての恋人にして姪であった少女ゲリと重ねており、青い目と金髪にして描くようジェーンライトに強要しようとしたりします。


 作中で描かれるもうひとつの20世紀でナチスドイツはヨーロッパ中を支配しています。(バルバロッサ作戦は行われず、独ソ戦のない世界。イギリスは長い抵抗の挙句敗北する)。己を呪いながら自殺するチャーチルの描写はドキリとするほど迫力があります。アメリカとドイツと化したヨーロッパの、果て無き希望なき戦い。しかし老いてカリスマ性を失った、かつての指導者ヒトラーはドイツ軍部に秘密裏に幽閉されてしまいます。そしてなぜかジェーンライトはZと暮らすはめになるのです。


 「依頼人」であったZに家族を殺されたジェーンライトは復讐を試みます。Zの固執するもうひとつの世界、ジェーンライトの書く小説の世界でZの愛する女をメチャクチャにしてやろう…Zの息子にむごい運命を味あわせてやろう…しかし、ジェーンライトの筆先が描きだす「虚構の20世紀」であるはずの世界は、もうひとつの「本当の20世紀」に続いていたのでした。つまり、私たち(読者)の住む、今の、ナチスドイツが敗北する現実の20世紀。生きた20世紀。本物の生命を持つ、ある母子に……(シュール!)

 あれから何年もたったいまもまた、私は彼らの部屋のドアの前に立つ。あの夜初めてこのドアの前に来て、その次の夜もここに来て、その次の夜も来て、その一週間ずっと来て、一ヶ月ずっと来て、二年、五年、十年、ずっと来続けてきている。私はいつでも、ドアの前に行けば勇気がおとずれるものと信じている。私は彼みたいに死ぬつもりはない。誰の許しも乞うこともなく死んでゆくつもりはないのだ。


 救済という信仰にしがみつくあまり、歴史は私たちのことを、怪物として片付けるかもしれない。だが見るがいい、神のパンツに糞がついているのだ。

 ジェーンライトはインディアンの母を持つアメリカ人で、少年の頃、兄を殺しています。しかしそんな彼はなぜかZを殺すことができない。Zの愛する架空の女も子どもも殺すことができない。何もすることができない。


 ジェーンライトはZでもある。Zはジェーンライトでもある。狂った詩人(小説家)は狂った権力者である。狂った権力者は狂った詩人(小説家)である。ふたりは世界と人間、そして何より“ことば”を恣意的に支配しようとする点で似ており、だから罪深い。


 最後に、Z=ジェーンライトは救済されたのか?というと、それはまったくわかりません。たぶん、それは読者の判断に委ねられるのでしょう。