「『バーナム博物館』に、ちょっと困りました」 南野うらら
ちょっと困りました。『バーナム博物館』はなかなかいいと思うんだけど、だからといって大喜びして誰かにすすめたくなるものでもないし、熱狂して何度も読み返したくなるような作品でもない。つまり、食べ物でいえば、とびっきり高級品のジェリービーンズか京菓子かという感じ。甘くて乙な味、他ではめったに味わえないようなおいしさなのだけど、別に食べなくても生きてゆけるような気がする。
けれど、確かに独特な繊細さと洒脱な魅力がここにあるので、この味わいを好きな人は好きなのだろうなあ。まあ、私もきらいではないです。
毒があるとまではいえないけれど、可愛らしくひねくれたユーモアと衒学趣味。心地良い人にはたまらないんじゃないだろーか。でも、なんというか、狂ってないよね。
知的で優雅な佇まい。なんか若いのに老成しちゃって、みたいな。とびきり頭のいい大学院生が書いた小説みたいな。
たとえば表題作にもなっている「バーナム博物館」。私にとって、この幻想と現実がいりまじる驚異の「バーナム博物館」の設定は、正直、特に魅力的でもなかったなあ。人魚や空飛ぶ絨毯、魔法のランプなど怪しげなものが展示され、常にどこかが改装中で、出入り口がどこなのかも正確にはわからない謎の博物館。ここは訪れる人々にとって現実逃避の場所であると同時に、<外の>現実の確かさを再確認させてくれる装置でもあらしい。どうやらこのバーナム博物館自体が、おそらく「虚構」=「小説」の比喩にもなっているらしい。その上で、ミルハウザーは、この博物館の<外の>現実については何も心配する必要はありませんよと言っている。
計算づくの怪奇趣味とノスタルジーで彩られた博物館。この町に生きる人はバーバム博物館を愛している。なぜならそれが現実の土台を揺るがすことは決してないから。つまり、「小説」はあくまで小説であるし、「事実」が小説を超えることもない。
他の作品でもこれは同じ。不思議の国のアリスは自分が夢を見ていることを知りながら夢を見続ける。映画館の幻想の部屋に迷い込んだ少年は、たやすくそこから抜け出し、笑顔で迎えにきた父の手をにぎる。あまりにも儚い夢、あまりにもたやすい現実と安定への帰還。たぶん、ミルハウザーの世界では、どこまでは現実は現実、妄想は妄想なのだ。「それで十分、ほとんど十分」。過剰な想像力は暴走するかのように見えて、あくまで優雅に、あくまで甘美に、フィクションの限界のうちに留まる。それは自分も他人も傷つけはしない。
たとえば崩壊寸前のハプスブルク帝国に現れた大魔術師アイゼンハイム。彼は、最後には自分から、「神秘と夢から成る不滅の領域」へと入ってゆく。しかし、「神秘と夢から成る不滅の領域」とは一体何なのか? それはそもそも、どこにあるのか? そしてそれは本当に、「不滅」なのか?
根源的な疑問がすっぽり抜け落ちている気がする。この世界。
ようするに、作者は単に小説を書くことが上手で楽しくて、楽しいから淡々と小説を書いているのであって、それはそれでステキなことだけども……みたいな。別にそれでもいいっちゃいいんだけど、物足りないっちゃ物足りない。
これだったらー、スティーブン・キングのほうがずっとよっぽど「文学」してるんじゃないかとも思ったんですけど、これって暴言なんでしょうか???