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「物語」の博物館 〜スティーヴン・ミルハウザ−『バーナム博物館』論〜 松浦綾夫


 短篇集『バーナム博物館』はどこから読んでもおもしろい。


 全編に作者の物語への愛が満ちているのである。


 「シンドバッド第八の航海」を読みながら、私はむしょうに『千夜一夜』が読みたくてならなかった。「アリスは、落ちながら」では『不思議の国のアリス』を、そして表題作ではボルヘスの『バベルの図書館』を…という具合に。


 スティーヴン・ミルハウザ−は世界文学史へリスペクトを捧げ、それを仔細に分析し、切り貼りしたり、再解釈したり、話の構造を流用したりして、自家薬籠中のものとする、多才なフォロワーといえるだろう。


 しかし、こういう純粋無垢な文学史への愛情・熱情はどこから生まれてくるのだろうか。ちょっと奇矯なほど大真面目にやっているからである。


 ミルハウザ−がアメリ現代文学史的にどういう位置づけなのかは知らないが、ふつうに考えればこれはポストモダン小説の正嫡である。ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』のような作品の傍系、申し子のような作風だ。


 私にはミルハウザーの文学愛が気恥ずかしくもある。


 単行本のアメリカでの出版年が1990年と知って、ちょっと感性が古いのではないか、とも感じた。


 この作品集が前衛文学としての賞賛を浴びるべき賞味期限は、せいぜい83、4年頃までではないか。


 だって、90年ならば、こうした手法とか方法論を大真面目にやることは、みんなとうに終わっているからだ。
 アメリカのボードゲームのキャラクターに物語を託した「探偵ゲーム」やT・S・エリオットの詩をマンガのコマ割りへ翻案した「クラシック・コミックス♯1」。こうした作品を一生懸命書くのは、ただのギャグにしか思えない。パロディをパロディとして認めること自体が既に古い。


 つまり、やることに意義がある、のであって、これはもうコンセプチュアル・アートのようなものである(作品自体はポップアートっぽいが)。


 もし本人に尖鋭的な文学の営為などではなく、ギャグでやっている意識があるのなら、もっとバカバカしく、やぶれかぶれに書いたほうがいい。


 そうは言っても各篇とも完成度は高く、おもしろい。読める読める。


 「物語のための物語」なんて、ボルヘスあたりまでが衝撃性をもっていたのであって、1990年に『バーナム博物館』を出されても、筒井康隆の初期短篇集のほうがはるかに出来がよくて、新しいことになる。


 むしろ、アメリカ人の歴史への「餓え」のようなものが、こういうポストモダン小説の正調のような作品を書かせたのだとしたら、奇妙なふるまいである。


 余談だが、永くヨーロッパ中心だった現代美術の世界に、アメリカンアートが巻き返しをはかったのは、ジャクソン・ポロックマーク・ロスコらの純粋抽象の登場にあると言われる。それ以来、アートの新しいムーブメントはアメリカから発信するようになったというのだ。ポップアートしかり、ニューペインティングしかり。


 では、現代文学の新風はどこから吹いているだろう。


 白水Uブックスのなかで同じ柴田元幸さんが翻訳している、スチュアート・タイベックの『シカゴ育ち』のほうが、物語回帰願望を一回リセットしたうえで、詩的な感性を生かして、書いていると思うし、好感がもてた。
 もっとも、ミルハウザーの作品でも「セピア色の絵葉書」や「雨」などが、タイベックの作風ともかさなる、うまくまとまった好短篇だ。


 どちらの作家もアメリ現代文学の大物で、柴田さんの目にかなったのだとしたら、どこにひかれているのだろう。


 ミルハウザ−は『イン・ザ・ペニー・アーケード』を読んだときもそうだったけれど、物語の極度の人工性みたいなものが邪魔して―スタイルそのものに今では新鮮さがないぶん―私には入りこめなかった、相性が悪かった。
 でも、こうも思っている。


 もしミルハウザーが、「シンドバッド第八の航海」や「アリスは、落ちながら」のような物語に淫した短篇を、それこそ千夜分ほども語り継ぐことができるなら、アメリカのモダンアートをほめるのに欠かせない、あの言葉―「sablime サブライム」(荘厳、崇高)をもってして、この作家を評価したい。


 物語を物語るとは、ほんらい反復と分量だけがすべてといっていい手法なのだから。(了)