●1999年から続く文化系サラリーマンたちの読書会。白水社さんを勝手に応援中です。
●メールはu_ken7@yahoo.co.jpまで。
●当ブログのコンテンツ
U研って何?メンバーこれまでの歩み活動レポート掲示板リンク集

「総論・のようなもの」 松浦綾夫

 そういえば…
 『日本幻想短編小説集1』の総論みたいなものを述べるのを忘れていた。
 ザザザッと、書く。



 五木寛之「白いワニの帝国」がよかった。
 今読んでもとてもおもしろく読めるし、新しい。
この小説がこんなにポップなのは、主要な登場人物である永六輔が現役でメディアに出ていることの共時体験も大きいし、彼の話芸が今も強い影響力をもっていることがよく作用した効果もあるだろう。併録の「老車の墓場」は現在読むと、やや通俗すぎて感心しない。
作中、アメリカの地下水道で子どもたちが飼っていた小さなワニを親たちがトイレに流した結果、大きく成長して清掃員を食い散らし、機動隊が出動した…というような、まことしやかなエピソードがある。
 ご存じのように、このエピソードは、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』でそっくりそのまま用いられている。ヒロインのアネモネがペットにして飼うワニについての一挿話としてだ。
 村上龍五木寛之は知らない仲ではないから、無断引用したわけではないだろう。許可をとってまるまる引用したのか、あるいは共通の元ネタがあるのかはしらない。ただ、村上龍の悪魔的想像力が生み出した最高のホラ話、と思っていたワニの話の元ネタ(?)が「白いワニの帝国」にあることは驚嘆の事実であった。
 岡崎京子の代表的な長編漫画『PINK』にはペットのワニのエサ代を稼ぐため、夜の仕事をする女の子の話が出てくる。ゴダールを信奉していた岡崎からすれば、これはもちろん村上龍の『コインロッカーベイビーズ』からの意識的な<引用>である。その感性を美術批評家・椹木野衣は岡崎の名を冠した評論で真っ向から論じる。もちろん、彼が流行らせた『シミュレーショニズム』=盗用芸術を実践した作家として…。



 小松左京の「くだんのはは」も優れていた。最後にいたるまで幼年期にだれしも体験する「見るな」の禁忌がもつ恐怖を感じさせてくれた。どこか手塚治虫や裵星大二郎の漫画を読んでいるようなトーンでもあったが。
 「くだんのはは」はもちろん「九段の母」である。ところで、この「件」(くだん)だが、内田百けん(けんは門がまえに月)にその名も「件」という短編がある。ものが存在すること自体の恐怖がひたひたと押し寄せてくる、百けんの世界を味わうのに好個の名作である。小松左京の「くだんのはは」とセットにして読むことをお薦めする。『冥途・旅順入城式』(岩波文庫)で読める。



 神吉拓郎の幻の料理屋をめぐる小説もなかなかよかった。
 美食をめぐる甘美な体験は小説と相性がよい。
 しかしこの作品が収録されているはずの単行本『ブラックバス』は、むかし文庫本で読んだのだが、まったく記憶がなかった。これもまたひとつの「幻想」だろうか…?(その文庫本を買った、母子が営んでいた小さな古本屋は、中学生の頃、実家の近所にあったが、開店して3ヶ月ほどで忽然となくなった)。



 小川未明の「金の輪」を再読して思うのは、児童文学がかくしているひとつの真理であり、テーマだ。
 それは夭折であり、子どもは死にやすい、という昔からの伝統だ。
 児童文学とは、児童=死にちかく、大人になるまでは危険と背中あわせにあるもの、がつねにはらむ<死>をあつかったものなのだ。その証拠に小川未明は「ろうそくと人魚」や「野ばら」でもくりかえし天変地異や戦争といった厄災を描いた。どの作品にもはかなさとタナトスが同時にしめされ、読後になんともさみしい気にさせられる。
 小川未明は若い頃アナーキストだった。その転向体験は如実に作品にも尾をひいていて、物語の結び方も現実とおなじく容赦ない。「金の輪」は子どもの死に、どこか仏教的な無常観がただよう佳品でもある。



 今回、一巻を読んでみて、五木寛之小松左京安部公房といった大家は、やっぱり力があるなあ、と感じた。安部公房は前半はあまり感心しなかったが、後半のオチにはこの作家の正面突破力がいかんなく発揮されていた。「赤い繭」など初期から揺曳する<変身もの>の系譜である。井上ひさしの『ブンとフン』なども連想した。


 
 中島敦の『山月記』や芥川龍之介の『魔術師』についても書きたいのだが、これはまた別格扱いで好き作家たちなので別の機会に譲りたい。
 総じて、『日本幻想短編小説集1』は秀作揃いであった。
 満足まんぞく。