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「幻想小説」とはなにか 内海惟人


 「幻想小説が読みたい」と思ったことはない。そもそも「幻想小説」という発想がなかったからだ。もちろん」世の中に「幻想小説」なるものがあってファンがいるらしいということは薄々感づいていたが、それがなんであるかは全く興味の外であった。


 今回この『日本幻想小説傑作集Ⅰ』が課題図書にならなければ一生「幻想小説」とは無縁だったと思う。


 さっそく読んでみると、中島敦安部公房芥川龍之介など「これを幻想小説というのかあ」と正直、感心したが、こういうものを「幻想小説」というのなら、今までもけっこう読んでいるな。小説をいろいろ読んでいる人なら、ひとつくらい「幻想小説」と呼ばれるカテゴリーに属するものを読んでいるはずだし、それが他のジャンルの小説と決定的に異なる体験をもたらすわけでもない。では何故「幻想小説」なのか。


 「幻想小説」の定義は多種多様であろうが、問題はそれらが存在する理由である。外的な特徴だけを論じるのであれば、超常現象に出会ったり、幽霊にあったりする物語はそれこそ『今昔物語』からあるわけだ。おそらく十九世紀以降の「近代」とくくられる時代において小説の爆発的な深化と展開は、それ以前の物語と外的に類似する部分はあるにせよ、モチーフにおいて大きく異なる。幻想小説の中の現象や心理がいったい何を表現しているのか明快にするのが幻想小説(だけとは限らないが)を批評するときの役割のひとつだと思う。
 

 わかりやすいのは芥川の「魔術」。主人公は魔術に憧れる青年で、インド人から習おうとするのであるが、「欲」を持つ者は魔術を会得する資格はないと言われ結局失敗する。これなどブルジョワ的自我がもつ欲望に対する「弱さ」を表現していると言えば、宮本顕治の指摘みたいでうさんくさいが、当たらずとも遠からずであろう。それを「胡蝶の夢」的な時間構造とインド人の披露する魔術のイメージや時雨の風景の配置の巧みさでくるんでいるのがこの作品の全てである。


 ただそうした批評によって作家の軽重を問うことはできないだろう。それは「空は空である」と言うようなものである。作家個々の「幻想」が島のように点在している。「二ノ橋 柳亭」にでてくる「食味評論家」の三田は、そんな感想を世界に対して持ったのではないだろうか。自分が創りあげた幻想の料理屋、それは自分だけの「真理」を表しているが、現実には存在し得ない。しかし、それは言葉によって表現されることによって他人が内実を知ることができる。そして実際にそれを「実現」してしまう輩もでてくる。それを評論家はだまって「冷笑」する他ない。彼が生業とする「評論」が成り立つ同じ地平にあるのだから。人間の幻想のあり方を鮮やかに描いた作品だと思う。
 

 さて「何故幻想小説なのか」ということなのだが、それは宿題ということにして、今度会うときまでに皆さん、考えてきて下さい。