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次回テキストについて

以下、次回のキュレーターである内海さんがBBSに書いてくれた『ナジャ』入門をまとめました。

 『ナジャ』が難しい、分からんという声が多いようなので、「ナジャ入門」のようなことをしてみたいと思います。

 私はA・ブルトンシュルレアリスムも専門的に学んだことはないので、『ナジャ』をどう読むかということに関して、正統的なナビゲーションはできません。ただ仏文科のときに詩人でもある朝吹亮二氏の「フランス文学史2」というシュルレアリスムの講義を取っていました。が、出席率は5割をきっていたため、ろくすぽ内容は覚えていません。

 そこで自己流ですが、皆さんの参考までに幾つかの「読むポイント」を書いてみようと思います。『ナジャ』に関する親切な解説は翻訳者の巌谷國士氏による岩波文庫版の解説がよいかと思われるので、そちらも是非参考にしてみて下さい。

 さて私の考えでは『ナジャ』は小説というよりも詩人による散文であり、それが読みにくくさせている原因のひとつだと思います。ブルトンは明らかにいわゆる小説特有の物語的な読みやすさを拒否しています。もちろん20世紀に入ってプルーストやジイドによる小説というものがあるわけで、この場合の「読みやすさ」というのは、あくまでも19世紀的な小説の、という意味です。作者や語り手の意識や認識といったものをどのように表出していくかということを意識した技法が小説の分野だけではなく、ボードレール以降の近代詩でも加速的に発展していったのです。若い頃からヴァレリーアポリネールといった文学者との交流があったブルトンも当然、19世紀風の物語を書くことはしませんでした。

 『ナジャ』は、主人公とナジャの出会いと別れという、それ自体はありふれている物語であるにもかかわらず、それは現実に起こった出来事でした。部分的に『ナジャ』は小説でもあり、日記でもあり、批評でもあり、手紙でもある。そうした「ごった煮」的な多様性が、今となっては古びてしまったとはいえ、面白いのではないでしょうか。ある意味で私は高橋源一郎に詩人の散文に似たものを感じます。またこれは彼が時評で論じたことで知ったのですが、天沢退二郎の『詩はどこに住んでいるか』もこうした散文の一つに数えることができるでしょう。

 『ナジャ』の導入部は、エリュアールやデスノス(彼の写真がいい!)などのシュルレアリスムの「仲間」が紹介され一種のグループのポートレートになっています。このあからさまな党派性は現在ではうさんくさくも感じられますが、党派間の思想の対立から起こる切磋琢磨はフランス文学ではよくあることでした。

 ナジャと出会ってからも、自分の作品を彼女に読ませたりして、自意識過剰では? と思わせないでもないブルトンです。そんなことをしながらも共に不思議な体験を重ねていく。もちろん冷静に考えれば不思議でもなんでもない出来事もあるのですが、相手と共振してしまう体質がブルトンにはあって面白いところだと思います。

 それからナジャが精神病院に入れられたことを知って、突然、精神医学と病院制度を罵倒し始めるあたりなどもよく考えるとすごい。例えば、もし誰か作家が自分の作品の中で「○○○○」(自主規制)の写真をデカデカとだして「このペテン師め!」とやったらどうなるでしょう(興味のある向きは試してみることをお薦めします)。当然ブルトンの場合も『ナジャ』出版後、精神医学界の非難を浴びました。そうした無防備さ、純粋さは私は自分にないこともあって嫌いではありません。後に「シュルレアリスム第二宣言」で多くの仲間を攻撃し、逆にとんでもない逆襲をくらってしまうブルトン。なんか孤独な熊さんを思わせます。『ナジャ』はブルトンという人間がとてもよく出ている。

 「ナジャ」とはいったい誰なのか? そう問うことができるのも、見知らぬ異性と出会えるという環境があるからでした。平たく言えばブルトンのような人間がナンパできる場所の問題です。20世紀初頭のパリを特権的に取り上げるつもりありませんが、当時の西欧で間違いなく生産的な都市として多くの芸術家―いやそれだけではなく人間を引きつけたのでした。現在のニューヨークや東京などももしかすると当時のパリのような存在になっているのかもしれません。ベンヤミンも注目したように、パリという都市の不思議な面を照射しているのも『ナジャ』の特徴と言えるでしょう。

 しかし、それとの裏返しとして、身分の不安定なナジャのような女性が食べるために娼婦までしなくてはならなかったのも事実でした。ブルトンがそのような女性のパトロン面をして無責任にも彼女を捨てたという人もいますが、しかし実際にブルトン自身パトロンをできるほど金持ちだったわけでもなく、独立した個人としてナジャに向かっていたことは読めば一目瞭然でしょう。「働く手をもたない」というランボーのテーゼを最後まで貫こうとしたそうですから(巖谷國士氏の発言より)。

 写真の使用について。『ナジャ』には多くの写真が使われていますが、それ自体そんなに意外性のあることとはいえません。イラストレーションなど多用された19世紀の小説は皆さんもよくごぞんじでしょう。ですが、『ナジャ』における写真はテクストの補助というより、もっと即物的なオブジェのようにみえます。特にバタイユの「親指」のテクストの写真を撮ったボアファールのものは、人物でも建物でもごろっと物が転がっているような写真でまさに「オブジェ」という感じです。そこから物語を読み取ることができない、一種「証拠物件」のようなあり方を醸し出しています。ただ62年版に追加されている何枚かの写真はそうではなく、何か謎めいた暗示を出しており、私自身は作品にとってマイナス効果を与えているように思えますが・・・。

 ナジャによる有名なデッサンも、これもどう評価するかちょっと見当がつきませんが、ヒステリー研究のシャルコーのヒステリー患者のデッサンは有名でしたし、フロイトの有名な「狼男」のデッサンなども想起されます。そのような狂気の徴候としてのデッサンとしてナジャのデッサン(イラスト?)を載せたのでしょうか? あるいは彼女にギニアのお面を見せたりして、「アウトサイダー・サート」的な捉えかたをしていたのかもしれません。

 最後にまあどうでもいいことですが、ナジャが書いた有名な手と顔の絵は、スザンヌ・ヴェガの3作目のアルバム「days of open Hand」にインスピレーション(?)を与えています。様々な手の模型をアレンジしたジョセフ・コーネル風のオブジェで通俗的なポップ感を出しています。思うにシュルレアリスムの作品というのはなんというか商業的なサブカルチャーに転化されやすい特徴を持っているような気がします。

 ヴェガには「nine objects of desire」というアルバムもあって思わせぶりですが、個人的は一番最初のアルバム「SUZANNE VEGA」がニューヨークという都市を感じさせて好きですね。

 とまあ、適当にいろいろ書いてきましたが、テクストをどう読むかは個人の自由でいいと、基本的には思います。ただ「分からない」といって思考停止してしまうのはいかがなものか。言わせてもらえば芸術なんてそんなに簡単に「分かる」ものでもないし、簡単に「分かって」しまってそれでどうしようというのか。性急に理解を求めず、「楽」ではないけど、思考錯誤を楽しむのも「文学」を読むことの醍醐味かな、と思います。

 これで「ナジャ入門」を終わりにします。


これ読んで、ちょっと反省しますた。もう少しマジメに読んでみよう。