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「藤沢周平的グリーン礼賛」 月立 晶

 わたしは昔から、周期的に脳が渇いてヒリヒリする感覚に襲われることがあり、そうなると上質の時代小説でしか渇きを癒すことができない。理由はわからない。ただそういうことがあるというだけのことだ。幸いにして山本周五郎池波正太郎柴田錬三郎と多作の大家に恵まれ、これまで困ったことはなかった。しかしここにきて、処方箋代わりの読書目録が枯れてきた。時代小説なら何でも良いというわけではない。やむなく“効き目”がないだろうと敬遠してきた藤沢周平を試してみることにした。

 これが意外なほどに“効いた”。それで、最近になって彼の文章にいろいろあたっているうちに、彼が自らの読書体験について語った「記憶に残るものはといえば、『ヒューマン・ファクターだけだ』」という一文に行き当たった。藤沢周平グレアム・グリーン。ちょっと意外な組み合わせと感じたが、あらためて作品を比べてみると、思いのほか近しいことに気づかされた。

 藤沢周平の小説を読み始めて、まず私が思い起こしたのは『葉隠』だった。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という一句ばかりが取り沙汰されるが、この書の重要なテーマのひとつに“忍ぶ恋”が挙げられる。「恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋の長けが低し。一生忍びて思ひ死にするこそ、恋の本意なれ」。

葉隠』で繰り返し説かれる“忍ぶ恋”には、異性への恋情や主君への忠義に限らず様々な対象が反映できるが、その本質は“秘して表出しない想い”であり、その“想い”は人の内面で燃焼する生の原動力となる。「忍ぶ恋」である以上、その“想い”は本人以外には秘匿されたままである。それゆえ“想い”の発露である言動は、他人には理解しがたいものであり、ときに滑稽でさえある。藤沢作品の主人公の多くが、しばしば周囲に愚直と映るのは、そうした“想い定めた人間”として描かれているゆえだろう。グレアム・グリーンの小説にも同様の人間が描かれている。もっともこちらのほうは“想い定めた人間”というよりは“想いに凝り固まった人間”というべき姿であるが。

 たとえば『情事の終り』では、恋人が死んだと誤解したヒロインが、その蘇生を願い発作的に神と契約を結ぶ。やがて自らの思い違いを奇跡にすり替えた彼女は、人知れず契約を守り、恋人を遠ざけたまま衰弱死を遂げる。一読すると、まるで『ロミオとジュリエット』の中年版パロディかと思えるほど滑稽な印象を受ける。この印象が宗教上の無理解によるとは、わたしには思われない。この滑稽さ、真剣であるがゆえに滑稽であることの哀しみを、グリーンは承知していたはずだ。

『ヒューマンファクター』においては、自らの“過去”に縛られた主人公が、国家を裏切り、同僚を死に追いやり、愛犬を撃ち殺す。裏切りと流血に見合うほどの価値が、彼の“過去”にあっただろうか。グリーンが、主人公にはっきりと正当性を持たせていない以上、客観的な判断は無意味だろう。ただ周囲にとっては理解しがたい非道であり、主人公にとっては、すべて必然の結果であった。彼がいったい何と契約を交わしたのかは問題ではない。神でも信条でも恩義でも、同じことだ。小説にはただ、彼の厳しい孤独が描かれている。

『事件の核心』で、自分たちのために苦悩し死んだ良人を罵る妻に、神父が語る。「教会の教えはわしにはようわかっとる。教会のほうは規則のことは全部知っとりますわい。じゃが、たった一人の人間の心のなかでおこなわれていることも教会は知りませんのじゃ」ここで語られているのは“忍ぶ恋”の絶対的な孤独だ。

 藤沢周平が、その作中で繰り返し主人公に「秘剣」を背負わせたのも、恐らくはこの孤独に通じるものだろう。秘剣を継ぐ者は常に一人。必殺の剣であるがゆえに、その太刀筋を知るものもまたこの世にただ一人なのだ。