匿名希望「小林秀雄をひっぱたきたい」
わからない。
何が書いてあるのかさっぱりわからない。
2回も読んだのにわからない。
しかも2回目はメモをとって読んだというのにわからない(2回じゃ足りないのだろうか)。
もちろん日本語としての意味はわかる。
いや、嘘ついた。
じつは日本語としての意味もわからなかった。
わからないから、書いてあることがフレーズ単位でさえも頭に残らない。
確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。
わからない。
このフレーズは何なのか。
ここで表現されているのは、一体どんな音楽なのか。
これを書いた人間はモオツァルトの音楽ではなく自分に酔っているだけではないか。
たぶんこの人にとって批評の対象は別にモオツァルトでなくてもよかったのだ。
この批評の「モオツァルト」という単語を、すべて「マイルス・デイビス」に変えても、なんとなく読めてしまうことが、それを証明していないか(歴史的な事実は置いといて)。
「マイルス・デイビスは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それぞまさしく目的を貫いたという事であった」
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「モオツァルト」とは、いったい何なのか。
それは、音楽について書かれた「文学」である。
悪い意味での「文学」である。
少なくとも音楽評論ではない。
これを読んでも、今後の音楽受容には1ミリもプラスにならない。
少なくとも私にとっては。
コードの名前のひとつでも覚えたほうが有益だ。
「モオツァルト」は、実はたいしたことを言っていない。
メッセージは次の3点である。
1)モオツァルトは天才だ。
2)モオツァルトの音楽は比類がない。
3)モオツァルトのことが分かっているのはオレだけだ!
べつに難しくもないことを、大上段に難しく言っているから意味がわからないのだ。
視野が広そうで、実は狭い
(ここではクラシック音楽が盲目的に特権化され、
ジャズを含む大衆音楽は、ただの背景に追いやられている)。
すべてを見ているようで、なにも見ていない。
ここにあるのはレトリックとペダントリーだけだ。
「音楽」はない。
小林秀雄も自分で言っている。
もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。(P10)
そのとおりだ(高橋悠治風に)。