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松浦綾夫「小林秀雄が聞こえない―「モオツァルト」を読んで―」



 小林秀雄に三度出逢い損ねている。
 一度は中学のとき。絵画に興味をもちはじめて、小林の『近代絵画』を読もうとした。が、主観を叩きつけるように書かれた文章に、この老人はセザンヌゴッホの絵のよさよりも、おれの意見を聞けと喚いている、と思い、半ばで読むのをよした。

 次に大学生になって『Xへの手紙・私小説論』を読んだ。文意はわかった。時代背景が色濃すぎて、自分の問題として感じとれなかった。ただ、そのとき、まとめて小林の著作は読み、日本古典を論じた文章の余韻に感心した。

 三度目は、社会人になって、新潮から没後二度目の小林秀雄全集が出たとき。軽装本で読みやすく、スッと読み流したが、なにもひっかからなかった。

 自分のなかで残っているのは、壁に掛けた良寛の書を贋作だと指摘され、日本刀でその場で真っ二つに斬った、とか、美術館に行くと目当ての絵を一点だけ凝視して帰り、映画を観ている途中でも展開が読めると出ていってしまうとか、小便が近くて座敷でお茶を出され何度注意されてもまっすぐ走って湯のみをひっくり返すとか、幼児相手に骨董のよさを諭すとか、そんな逸話・小林神話の類ばかりだ。多くの人は小林秀雄の書いた文字ではなく、雰囲気に圧倒されていやしないか。


 江藤淳の評論にして評伝『小林秀雄』を読むと、小林の生い立ちと精神形成が細緻に、これ以上ないほどよく論じられ、見事だと思う。これはいわば小林の批評の前駆であり、戦後「モオツァルト」(昭和二十一年十二月)を書くまでの青年・小林秀雄が描かれ、あとは略されている。それほどに「モオツァルト」が跳躍であった。

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。

 だが、28歳の小林秀雄が『文藝春秋』で「アシルと亀の子」の名で始めた文芸時評の中で、すでに「モオツァルト」そっくりのこんな一節に出くわす。「物質への情熱」と題された回である(昭和六年十一月)。

ジャズというものがある。これは大変悲しいものである。(中略)ジャズはまさしく切ない心を語っている。切なく私に聞こえるのではない、その音符が悲しく配列されているのである。人々はジャズの音に耳を澄ますがよい。(中略)音というのは恐ろしく正直なものだ。ただ聞く耳が、ジャズなどに浮かれる男の聞く耳が恐ろしく嘘つきなのである。

 こんな調子でしばらくつづく。戦時中の沈黙を破って、「モオツァルト」が書かれたとき、当時の人々は驚いたという。が、音への情熱も、迫り方も、論理も、元から変節していない。よたよた自分の雑感や社会時評から始めて、終わりのほうで二、三の小説を論じるというスタイルは、現在の朝日、読売、毎日などの新聞で書かれる文芸時評でもまったく変わっていない。


 『モオツァルト』の単行本は昭和二十三年、日産書房という版元から刊行されている。今、私の手もとにある二冊の『文芸評論』、『続文芸評論』とおなじ版元である。『文芸評論』、『続文芸評論』は小林の最も若いときの著作であり、それぞれ昭和六年、七年に白水社から刊行されている。だから、日産書房版は『モオツァルト』の評判にあてこんでなのか、復刊されたものだ。私はこれを青山二郎による李朝民芸風の装丁の美しさにひかれ、早稲田の古書街で破格の安さで手に入れた。戦後の混乱期に出ただけあり、紙は虫を食い、中はぼろぼろである。小林秀雄の検印が押され、インフレだったのか、なんと『文芸評論』が二百円、『続文芸評論』が二百五十円もする。しかも奥付を見ると、『文芸評論』のほうは、版元は港区の住所なのに、印刷・製本はそれぞれ札幌の二箇所にわけて作られている。ということは、東京で作った版を北海道に送り、印刷した本を海路で東京に納入したということか。製造コストの問題なのか、東京の印刷所が焼けて復旧が遅れていたのか、わからない。『続文芸評論』も印刷は横浜市中区で行われている。東京で刷れない事情があったのかもしれない。

 そんな騒然とした戦後、人々は飢えていたように書物に群がり、小林秀雄は「モオツァルト」を鮮やかに高鳴らせた。


 誤解をいくつか解きたい。坂口安吾が小林の批評を「教祖の文学」だと言って批判した(昭和二十二年六月)。安吾は小林を「曖昧さをもてあそぶ性癖があり、気のきいた表現にみずから思いこんで取り澄ましている態度が根底にある」と難じる。

小林はもう悲しい人間でも不幸な人間でもない。彼が見ているのは、たかが人間の孤独の相にすぎないので、生きる人間の苦悩というものとは、もう無縁だ。そして満足している。骨董を愛しながら。鑑定しながら。そして奥義をひらいて達観し、よく見えすぎる目で人間どもを眺めている。

 小林秀雄の全盛期に同時代から発せられた代表的な批判であろう。

 「好きなものはのろうか殺すか争うかしなければならないのよ」と夜長姫に語らせた安吾だから、とうぜん、汚れた手で生きる作家とたたかわなくなった教祖・小林には厳しい言葉になる。

 この後、小林と安吾が対談しているのをご存じだろうか。

 昭和二十三年八月。対談して間もなく、

坂口 ああ、「教祖の文学」か。あれはなんでもないじゃないか。
小林 誤解されるんで困るんだ。
坂口 誤解じゃないよ。あれくらい小林秀雄を褒めてるものはないんだよ。

 と応酬し、実は周囲が心配していた二人の仲違をよそに認めあっているとわかる。

坂口 僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。生活ということ、ジャズだのダンスホールみたいなもの、こういうバカなものとモオツァルトとは全然違うものだと思うんですよ。文学というものは必ず生活の中にあるものでね、モオツァルトなんていうものは、モオツァルトが生活してた時は、果して今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ。つまりギャアギャアとジャズをやったりダンスをやったりするバカな奴の中に実際は人生があってね、芸術というものは、いつでもそこから出て来るんじゃないかと僕は思うんですよ。
小林 そうそう。それで?
坂口 僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ。

 このあと旧知の間柄である二人はメリメの「カルメン」を讃え、志賀直哉の話になり、最後はドストエフスキーの小説、アリョーシャの人物造形をめぐり、涙を流さんばかりの共感となって終わる。

 私が小林秀雄と三度も出会い損ねているのは、おそらく、私が坂口安吾の小説を読み、小説の生命をふきこまれたせいだろう。たぶん、グジャグジャの混沌のなかで暴れまわって、放埓な生や性の営みの果てに、一片の、無上の美しい光を探りあてる安吾の小説世界は、小林の澄み切った死者=歴史へのまなざしと真逆にある。

 というよりも、小林には安吾の書く「桜の森の満開の下」や「白痴」や「青鬼の褌を洗う女」で見せた圧倒的に美しい女性の無垢な魂への憧憬に対して、「大変な女」長谷川泰子との同衾と別れを経験した自分と、女性作家・矢田津世子との純な失恋の痛手をかかえつづけた安吾の心象との、乖離をもともと感じたにちがいない。そして、安吾晩期の仕事となる歴史紀行『安吾日本風土記』などは、テッテイして生者の目から、人間の生理から、歴史の内奥を探りあてる。小林とは対極の体温や生臭さを安吾は歴史に求めた。


 もうひとつ。

 小林の有名なことば。先の大戦に対して「僕は無智だから反省なぞしない。利巧案な奴はたんと反省してみるがいい」と語ったという話。これも前後の文脈をとおして読むと、別の感慨が浮かぶ。

本多 (前略)戦争に対する小林さんの発言から見て、日本がこんなになっているのに、この戦争が正義かどうかというようなことをいうのはどうだとか、国民は黙って事態に処した、それが事変の特色である、そういうことを眺めているが楽しい、あとは詰らぬ、という風におっしゃったのですが、事実を必然と認めておられたんですか。

小林 僕は政治的に無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかっただろう、事変はこんな風にはならなかっただろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧案な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

 この座談会は昭和二十一年二月、『近代文学』の同人、すなわち、荒正人小田切秀雄、佐々木甚一、埴谷雄高平野謙、そして本多秋五らが、「小林秀雄を囲んで」と題して行った。有名な一説だけとりあげると、小林が喝破したようだが、むしろ若い文学者を前に言わされている感じがし、かくべつに深い意味はなかったようにあらためて思うのである。


 こうして二、三の誤解を解いてゆくと、小林秀雄の実像がすっきり見える。

 小林秀雄のほんとうに若い頃書いた小説の習作「一ツの脳髄」(大正十三年)は異様である。蛸のように観念の肥大した化け物の足が地べたを這うように視点がうつる。病的な観察眼である。

 小林は志賀直哉を尊敬していた。小林秀雄は早くから「志賀直哉」(昭和9年)を書き、志賀を「ウルトラ・エゴイスト」といった。志賀直哉はものがよく見えている。私小説だから、というのではなく、とにかくものがよく見えている。たとえば「朝顔」などという掌編の、蜂が朝顔の花弁にもぐりこむ文章を読むといい。小林秀雄も目が利いた。その小林には志賀のような小説、小説描写は書けなかったし、書かなかった。「一ツの脳髄」は思想にひきずられすぎるから、退屈なのだ。二人は見えているものの正体がちがうのだ。

一口に印象批評と言ってもピンからキリまであるわけだが、作品の個人による鑑賞という事実を信用する限り人は印象批評から逃げられない。逃げられない以上恐れる事は無益である。人は己れの印象を精密にし豊富にする事を努めればよいのである。
「アシルと亀の子」昭和六年五月


 小林秀雄の文章を読むといやになる。どれも今読んでもなおつづく問題を射ている。たとえば、「私小説論」。

わが国の自然主義文学の運動が、遂に独特な私小説を育て上げるに至ったのは、無論日本人の気質という様な主観的原因のみにあるのではない。何を置いても先ず西欧に私小説が生まれた外的事情がわが国になかった事による。自然主義文学は輸入されたが、この文学の背景となる実証主義思想を育てるためには、わが国の近代市民社会は狭隘であったのみならず、要らない古い肥料が多すぎたのである。

鴎外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかった。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察していたのである。

わが国の私小説家達が、私を信じ私生活を信じて何の不安も感じなかったのは、私の世界がそのまま社会の姿だったのであって、私の封建的残滓と社会の封建的残滓の微妙な一致の上に私小説は爛熟して行ったのである。

 小林はいまも私を悩ませている問題を私に突きつける。小林秀雄以降、小林秀雄以上に、文学にとって、意味のある批評をのこした人間はいたのか。

 いたかもしれない。けれども、たぶん、小林秀雄がいちばん余裕のないところでやっていた。

 ある作品がある。ふつうの批評家は「おれはこう読んだ」と書く。だが、小林秀雄の場合、「これはおれだ」と書く。作品に化りかわる。化りきる、のではない。化る、のだ。ふつう、そこまでやらない。が、小林が惚れこんだ女は発狂したように、作品に分け入り、自分が作品に化ってしまう。しかし、「これはおれだ」はふつうではできない。そこで、論じることのできる作品もきわめて限定される。


 小林秀雄の肉声を聴いたことがあるだろうか。

 文章から受ける印象のとおりしゃべる。少し高い声で早口だ。そして淀みや迷いがない。直截的だ。やはりよく斬れる日本刀のイメージだ。一節ごとが居合いだ。はじめから自明のように結論を切り出す。断定する。含羞や韜晦も一切ない。いま、こういう喋りかたをする人はいなくなった。いったい声だけ聴いたら、だれに似ているだろうか。政治家? 宗教家? いや、やはり文学者の声質なのだろう。

 ある講演録のカセットテープで、小林はこんな意味のことを言っている。

 さいきん、私は世の中の有名でない人たち、無名の人たちがどれだけえらいか、わかるようになった気がする。同時に、なにもいわないことのむつかしさも。
  
 生きるうえで一番むつかしいのは実生活だ。生活をうまくすることはどんな文豪でもかんたんにできることじゃなかった。

 いま、本居宣長がいったことが正しい・まちがってるが大事なんじゃない。そうじゃなくて、本居宣長がなぜそう考えたのか、なぜそうしたのか、それを思うことが大事なんだ。歴史ってのは想像することなんだ。

 どれもウロ覚えだが、だいたい合っているだろう。


 中原中也小林秀雄

 中也はこう歌う。

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨の尖。

 北鎌倉の東慶寺にいくと、山門から登り坂がつづき、初夏に岩たばこが花をつける岸壁の向かい側の細く奥まった路地に、小林秀雄の墓がある。それは極めて簡素な、どうということのない墓だ。鎌倉時代の武士がおいたような五輪塔が立つ。辺りも文士や著名人の墓が多く、人はそれがあの小林秀雄の墓だと気づかない。東慶寺にも、鎌倉特有の天然の崖を掘削し、墓所にしたやぐらがある。そこには鎌倉武士の墓が、転々と穿たれ整形された洞にある。五輪塔が立ち、遺骨は入っていないという。方形のやぐらの穴のどこに骨はあるのだろう。納骨される場所がどこなのか、今もって不明な墓も多い。町全体が戦場になった鎌倉では、どこからでも骨が出てくると聞いた。由比ヶ浜ではいまだに掘り返すと骨が出るらしい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見ているのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処にやって来て、
見ているのかしら?

 小林秀雄の骨は土を突き破って出てくることはなさそうだ。

10
 ウィーンに行けば、市街のモーツァルトが居た白い家に足を運び、往時と変わらず窓から石畳の街路を見下ろし、観光用の馬車が通るのを眺めるだろう。ミシェル・フォワマンの映画『アマデウス』を思い出し、たとえば、オペラ座モーツァルトの『魔笛』を観る。だが、町のシンボル・シュテファン大聖堂の地下にあるカタコンベに足を運ぶ人はそう多くない。ペストなど災禍で収容しきれなくなったウィーン市民の遺体を、かつて教会の地下に放り投げた。ちょうど、映画『アマデウス』の最後に、貧窮して死んだモーツァルトが、共同墓地に、他の遺骸と一緒に墓掘り人夫の手で投げ捨てられたように。投げ込まれた遺体はちょうど折り重なり、地層のように層をつくり、ミイラになった。ひしめくおびただしい遺骸は、大量虐殺のあとを見るようだ。カタコンベで今まで目にしたことのない数の死体を見たあと、暗い回廊から急なスロープを上がると、地上の光が差しこむ。ここでも多くの観光客は、階段出口の上に彫られたレリーフに気がつかない。それはモーツァルトの没後、その功績をたたえてつけられたものなのだ。私は地階から地上へ出たところでそのレリーフに気づき、ああ、なんというモーツァルトらしい場所においたのだろう、とひどく感じ入った。

死は、多年、彼の最上の友であった。彼は、毎晩、床につく度に死んでいた筈である。

 小林秀雄は「モオツァルト」でこう書いている。