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内海惟人「モオツァルト」

 自分の番だけはしっかり書かねば、と思いつつ、やはり時間がなくて中途半端のまま、書き始めなければならないはめになりました。いつものごとく考えていることの経過報告ということになります。

1 「批評」の発見

 今回考えたかったテーマは「批評」です。これまで僕らが読んできたのは「小説」が殆どでしたが、それを読んで論じるということは「批評」の問題により近いと思われるので、選んだといってもいいし、なによりももう二十年ちかく「批評」の読者であったということもあり、その問題をまとめて考えてみたいという思いがありました。

 読者というものは、作品の消費者であって、その立場は「批評家」と同じ立場ともいえましょう。ですがやはり僕らは批評家ではなく、「批評」といわれるものは批評家によって書かれてきたと、とりあえず言っていいと思います。ブログやアマゾンのレヴューというものがあって、それは匿名批評の問題にかかわってくるとは思いますが、とうていここで考えたい「批評」はそれとは違う。ここで考えたいのは小林秀雄が生み出し、引き継がれていった「批評」についてです。

 まず、小林秀雄によって「批評」が始まったといわれる理由を考えてみましょう。一般的には、彼が「批評」を自立したジャンルに仕上げたとよく言われます。「自立」の意味は幾つかあると思われますが、ひとつは作品に寄生しないそれ自体読める「作品」に仕上げたということでしょう。もうひとつは、注文原稿だけではなく、書きたいことを批評として書いて食べていけるということ。そして一番大きいのは「批評」というジャンルを小説や戯曲といったものと同等の立場に押し上げ、「批評家」という職業(?)を世間に認知させたということだと思います。

 文学史的にみれば、もちろん小林以前に批評と呼んでもいいものも存在したでしょう。しかし批評家を職業にし、数多くの読者を得たという事実は、やはりそれまでなかったのではないでしょうか。

 それでは小林にとって「批評」となんであったのでしょうか。小林秀雄に関する多くの論文、書籍がその問いに答えようとしているようにみえます。批評が研究と異なる地平はなにか、批評とはどのような営みなのか、まだ答え切れていない部分が多いような気がします。

2 「批評」の戦い

 小林が『様々なる意匠』でデビューしたときに、同時に宮本顕治も批評でデビューしたことは象徴的といえます。時代はプロレタリア文学・批評の全盛期でした。小林は始めからマルクス主義に法った文学論争に巻き込まれています。

 そこで小林がとった立場のひとつは、「作品を理論(もしくはイデオロギー)によって断罪することはできない」というものがあると思います。これは最初に作品が生み出す価値というものに重きをおいてそこを語らなければならないという態度だと言えるでしょう。

 プロレタリア文学運動は、周知のとおり、国家的な弾圧受け、やがて壊滅する。小林秀雄林房雄のあとを受けて「文学界」の編集を引き受け、ドストエフスキーの世界に入っていきます。

 戦争が激しくなるころから、彼は古典の世界を論じるようになっていき、文芸時評のような同時代的な発言をしなくなっていきます(有名な「事変の新しさ」のようなものもありますが)。さらに絵画や音楽など文芸作品以外への言及が始まります。音楽はもともと好きだったようですが、青山二郎とのつきあいから始まった骨董への興味も、影響しているのかもしれません。

 いずれにせよ、戦争が終わって本格的な文章として発表されたのが「モオトァルト」だったのです。

 戦中からすでに文芸時評のような仕事はもうしない、ということを小林は発言していました。戦後同時代の文学の現場から離れ、まるで「雲の上」のような存在になってしまった理由はそのことにあったのかもしれません。その一方で「モオツァルト」を始めとした作品は多くの読者を獲得し、彼のエピゴーネンを生んでいきます。

 しかし、小林に関するエピソードなどを読んでいると、そうした流派、グループとは隔絶した小林秀雄の姿が浮かんできます。彼自身中原中也をはじめ、大岡昇平河上徹太郎などすぐれた友人を持った人ですが、徒党のようなものを組むことなく、生涯、孤独に戦っていたようにみえます。

3 「モオツァルト」が提起する問題

 「モオツァルト」は、昭和二十一年に「創元」の創刊号に掲載されます。小林はこれを書くために四年ほど費やしているそうですから(高橋英夫による)、戦争中から構想されているということでしょう。

 このテクストに入る前に、このテクストから提起される問題群を思いつくままでにあげてみましょう。

(1)「音楽を批評する」とはどういうことか。

 音楽批評と大げさに名づける必要はないと思いますが、音楽を聴いてなにをどう書くのか、あるいはそのことの意味あいを音楽史を含めて考えるという問題があります。そうした仕事がこれまであったのか寡聞にして知りません。

 文藝批評のレベルですと、新保裕司などが始めたところで、またまだこれから論じられていくテーマだと思います。

(2)いわゆる「名作」「天才」論(とその関係)

 小林が文藝時評を捨ててに古典に向かったことなどもあわせて考えると、よくわかるのですが、つまり同時代の海のものとも山のものともわからない作品にかかわるのではなく、一流の作品、作家を相手にするという態度が「批評」の道としてありえます。文学研究などほとんどその類でしょう。一見、安全策のようにみえますが、それはそれで大変な世界です。

 問題は作品と作家の関係をどう論じるかという点にあります。ロラン・バルトなどのフランスの批評以降のトレンドとしては(けしてそれが主流ということではありません)、作品論、あるいはテクストとして作品を読むという点が強調されたわけですが、小林ははっきりと「作家」への関心を中心にもっているといえます。初期のランボー論からドストエフスキー論、最期の本居宣長まで、彼の興味は偉大な作品を生み出す人間とはどのような存在(魂)であったか、というところに集中していました。

(3)複製芸術の問題

 江藤淳福田和也がよく指摘していますが、小林はモオツァルトをレコードで聴くことを好み、そこから得られるものについて考えようとしました。名高い道頓堀で流れるト短調のシンフォニー体験、これはその神秘的体験が重要なのではなく、そのあとに百科店に入ってレコードを聴いた(がその感動が戻ってこなかった)という点が重要です。一度きりの演奏を再現しようという話ですから。

 複製の技術が向上するにつれ、現実の演奏と複製の問題はあまり触れられなくなってきたが、問題自体がなくなったわけではありません。

(4)そしていわゆる「批評」

 そして「モオツァルト」に限らないのであるが、なぜ小林はモオツァルトをこのように論じたのか。音楽の専門家が楽曲を「分析(Analyse)」するのではなく、なんだか、雲の形がこのフレーズに似ている、などと寝言のようなことを書かねばならなかったのか。

 どうして批評が必要なのか。多くの批評家(のような人)が小林の後に生まれたにもかかわらず、なぜそこが解明されなかったのか。文学研究や外国の批評・思想の紹介は進んだのにもかかわらず、小林は彼らの嘲笑の対象になってしまった。ベルグソンとの関係を哲学研究者があれこれ論じていたものの、小林がなぜベルグソンなのか、そしてそれがなぜ批評なのか論じきれた人はいかなかったのではないかと思われます。

 小林の批評の問題については、福田和也の登場によって再び陽の目を見始めていると私は考えますが、そうこうしているうちに「批評」というジャンル自体が衰退してしまった。その理由を考えることも「批評」の成立を考えるのと同じくらい重要だと思います。

 小林秀雄の「モオツァルト」を考えることは、ざっと以上のようなことにも触れるのではないかと個人的には思っています。

4 疾走するかなしみ

 小林秀雄の「モオツァルト」といえば、必ず言及される「疾走するかなしみ」をとりあげてみましょう。ト短調の「弦楽五重奏曲」(k516)を楽譜を挙げたあと、次のように述べています。

ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Gheon:Promenade avec Mozart)。確かにモオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「萬葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。(「全集」74頁)

 ゲオンの研究所の分析を受けているわけですが、小林のものは分析とはいえません。でも決めゼリフのようなフレーズが続き、読者を引きこむ力があります。この部分では、ゲオンが「弦楽五重奏曲」ではなく、「フルート四重奏曲」について言っていたという指摘もありますが、そういうことは問題ではない。小林はモオツァルトの音楽の全体(といっても小林が聴きえた狭い範囲だが)について絶妙な言葉を取り出したのです。

 この部分の直前にモオツァルトが父に宛てた手紙で母親の死を告げるくだりがあります。この批評のなかで白眉であると思われると同時に、「かなしみ」について理解するうえでも重要なところなので、少し長くなりますが引用します。

 これらの凡庸で退屈な長文の手紙を引用するわけにはいかなかったのであるが、書簡集につき、全文を注意深く読んだ人は、そこにモオツァルトの音楽に独特な、あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがするであろう。音楽家の魂が紙背から現れてくるのを感ずるだろう。死んだ許りの母親の死体の傍で、深夜、ただ一人、虚偽の報告と余計なおしゃべりを長々と書いているモオツァルトを、僕は努めて想像してみようとする。そこに座っているのは、大人振った子供でもなければ、子供染みた大人でもない。そういう観察は、もはや、彼が閉ぢ籠った夢のなかには這入って行けない。父親に嘘をつこうという気紛れな思い付きが、あたかも音楽の主題の様に彼の心中で鮮やかに鳴っているのである。当然、それは彼の音楽の手法に従って転調するのであるが、彼のペンは、音符の代りに、ヴォルテエルだとか氷菓子だとかと書かねばならず、従ってその効果については、彼は何事も知らない。郵便屋は、確かに手紙を父親の許まで届けたが、彼の不思議な愛情の徴しが、一緒に届けられたかどうかは、甚だ疑わしい。恐らくそんなものは誰の手にも届くまい。空に上り、鳥にでもなるより他はなかったかも知れぬ。ただ、モオツァルト自身は、届いた事を堅く信じていた事だけが確かである。僕には、彼の裸で孤独な魂が見える様だ。それは人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげ形をしている。母親を看病しながら、彼の素早い感性は、母親の死臭を嗅いで悩んだであろう。彼の悩みにとっては、母親の死は遅く来すぎたであろうし、又、来てみれば、それはあまり単純すぎたものだったかも知れぬ。彼は泣く。併し、人々が泣き始める頃には彼は笑っている。(「全集」第8巻72-73頁)

 ここに彼の真骨頂があるように思います。モオツァルトの音楽だけを聴いただけでは当然でてこない情報、言葉があります。ですから俗世間でいわれる「印象批評」とはかなり異なる。

 戦後一番最初の活字になった小林の発言(「近代文学」の同人との座談会「コメディ・レテレール」)に、自分はできるだけ資料を調べて書きたい、といった発言があります。

 当然、資料には限界があるでしょう。専門家ではないため、読みに誤解もある。でもそれらを含めて「作品」として読めることが批評の価値であると思います。一般読者は専門書など読みはしない。そこをうまく「繋ぐ」役割が「批評」にはあります。

 ところで、すでに死んでしまっているモオツァルトや古典はともかく、同時代の作家にとって自分の作品を誤読されることはいい迷惑かもしれません。意図を捻じ曲げられることを認めることはできないことも当然です。しかし、歴史から誤解をなくすことはできないし、相互理解に誤解をもとなわない関係というものが、ありうるのでしょうか。

 小林は「モオツァルト」以降、音楽について本格的に書くことはありませんでした。彼自身によると音楽を本格的に学ばないとかけないし、「モオツァルト」のように書くつもりはないといったそうです。だから「モオツァルト」は音楽の理論などなにも知らないが、モーツァルトから受けた感動をなんとかして言葉にして言葉にしようとした記録として読めばよいし、おそらく彼の音楽を聞く大部分の人が同じ条件であるといえるでしょう。逆に言うと、だからこそ多くの人に言葉が届いたので、また、吉田秀和のような音楽の専門家にも大きな影響を与えたのだと思います。

 小林は湯川秀樹との対談で「モオツァルト」に関して、「自由」について書きたかったと述べています。そのとき彼は哲学者のように自由論として書くのではなく、モオツァルトの音楽作品から始めた。若き日に、もしマルクスが文芸論を書くとしたら、トルストイのように「芸術とはなにか」を論じるのではなく、「アンナ・カレーリナ」の分析から始めるだろうと書いたように、彼もまた具体的な作品から入っていった。そしてそれ最期の『本居宣長』まで続いたのです。なんと一貫した態度でしょうか。