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id:URARIA 「『海炭市序景』を読んで」


海炭市叙景」は、架空の町を舞台とした人びとの物語だ。二章十八節で構成されたこの作品は未完であり、四十一歳で死んだ著者の晩年の作品だという。


 登場するのは権力にも財産にも縁のない、いわゆる市井の人たちだ。いわゆる中流から下流ブルーカラーか商店主、ホワイトカラーでもヒラの事務職、あるいは子ども。描かれる生活は、希望に満ちたものもそうでもないものもあるが、どこかやりきれなさ(その反動としての爽やかさ)が漂っている。暗いものほど心に残る。冒頭の「まだ若い廃墟」、下山して帰らぬ兄をいつまでも待つ妹、「この海岸に」で粉雪にまみれダイヤルを回し続ける満夫、「裂けた爪」で息子を虐待する妻に苛立つガソリン屋の晴夫…いたたまれない気持が伝わってくる。「週末」で、娘の出産を心待ちにするバス運転手の物語は一見、明るいが、その背景には小砂丘の元スラム住民と街の人びとの対立と偏見の歴史がある。そして「彼らが、冬、木のゴミの中で新聞紙にくるまって凍死した」という一節もさりげなく入る。


 読みすすめてゆくうち、読者は気づくことになる。


 一人一人の生活は、けっして、一人一人孤立したものとしてこの世に存在しているのではない。互いに顔を知っていても知らなくても、無関心であっても、憎みあっていても、人間同士の関係は絡み合い、どこかでつながりあう。登場人物たちの生は海炭市というこの世界に唯一の場所、固有の時間、積み重ねの上に成り立っている。


 海炭市は作者の故郷、函館市がモデルだ。いっそ「函館市叙景」でもよかったような気がする。わざわざ架空の都市の名を冠したのはなぜだろう。日本(世界)のどこにでもある地方都市、と置き換え可能にすることで、読者により身近に感じてもらいたかったのかもしれない。あるいは「関係者」の抗議を避けたい思いがあったのかもしれない(差別や組合についても少し触れているから)。また、完全に架空の都市だと(言わずもがなの)宣言をすることで、より自由に想像力の翼を広げることが可能になったのかもしれない。


 いずれにせよ、私が感じたのは、「うーん、この人は、『神様』の名に値するようなものと出会いたかったんだな」ということだった。


 間違った決めつけかもしれない。そもそも「神様」って何? と言われれば、ちょっと困ってしまう。私の定義では、それは一般的に是とされる価値(勝利、富、名誉、幸福…)とはまったく別に存在する「何か」だ。まあ、「愛」と言ってもいいけれど、どちらかと言えば「真実」に近いイメージ。つまり願望や妄想や虚飾ではなくて、人生において「本当のことを知りたい」という気持だ。ひいては「本当らしいことを書きたい」。


 まったく違うかもしれない。たとえば第2章の「まっとうな男」「大事なこと」「ネコを抱いた婆さん」。それぞれ乾いたユーモアを感じさせる佳品だが、リアリティという面ではそれほ真に迫るものではない。ラストの「しずかな若者」に至っては、若い男女二人の会話はまるで翻訳調で、現実感からはほど遠い。


 粒揃いの出来だが、リアリティの設定には微妙にバラつきのある連作短編集である。私はもしや、と思う。作者は「迷っている」。


 文章は隙がない。完璧、と言ってもいいほど美しい。だがこれは、と思う。「疲れるだろうなあ」。かなり消耗すると思う。すべて本当らしく見せるために、綿密な計算が行われている。文学なら当然のことだ。だがこれは一体何なのだ。自然さをよそおうための不自然さ。窮屈なのだ。時々、息ができない。


 私は的外れなことを言っているだろうか? だが私はこの窮屈さに、かえって作者の「体温」を感じた。確かにここには闘いがある。彼は“それ”を信じていなかったのに、“それ”のためにたたかったのだ。それも文字通り、「命がけ」で。


 「佐藤泰志は、一九四九年四月、北海道の函館市に生まれ、一九九〇年十月、東京の国分寺市の植木畑でみずから命を断った。」(解説「佐藤泰志の文学」福間健二