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極楽寺坂みづほ「自戒を込めて読み返したい」


 純文学とそれ以外の境界線はもともと曖昧なものだし、両者を劃然と分けることにそもそも意味があるのか、という疑問は常にある。それでもやはり、慣例的な違いというものは存在するし、おおむねの作品はそのどちらかにカテゴライズできるものだと思う。そして、あまり小説を読みつけない人からしばしば発される、「純文学とそれ以外の違いってどこにあるの?」という問いに対して、私が好んで用いるフレーズがある。すなわち、「オチのないものが純文学である」と。


 もちろん、これはそうとう乱暴な定義だが、ひとことで集約するなら、そう大きく外れているわけでもないと思う。明瞭な起承転結を標榜し、「何が起きて、何がどう変わったのか」という点を明示することを要求されるいわゆるエンターテインメントに対して、純文学は概して、なにかが起きることをむしろ念入りに避けているようなところがある。正確には、何も起きていないかのようなその状況の中で、人が何を感じ、どうふるまうのかを微細に捉えることによって、表立っては見えないけれど実はなにかが起きているのだ、ということを浮かび上がらせようとするのが純文学なのだ。


 その意味で、佐藤泰志はまさに、純文学以外のなにものでもない。


 ここ数年の私は、作家デビューするまではむしろむきになって読むまいとしていたいわゆるエンターテインメント系の作品ばかりを読みつづけてきた。それは自分が職業作家として生き残るための遅ればせの研究であり、研鑽でもあったわけだが、そうした文脈とはおそらくほぼ無関係に、「書く」という行為そのものに心身を捧げていた、佐藤泰志という作家がいた。


 私は、「書く」という行為にまつわるそうした酷薄さのようなものを、必ずしも礼賛するつもりはない。よくも悪くも、私にはそういう形で「書」いていくことができないだろうとも思う。しかし、いやむしろそれだけに、純文学としか言いようがない佐藤の作品に図らずも触れることになった私は、心が洗われるような気分に浸っている。


海炭市叙景』は、未完ながら、未完であるという事実を打ち消してしまうほどの質の高さを持った、恐るべき傑作である。ある地方都市の日常を18の断章によってスケッチしたものだが、その視点が、ほとんどあらゆる階層・あらゆる年齢層の人々にわたっている点、そのそれぞれが同じ精度・同じ密度で均等に並べられている点に、ほとんど畏怖の念めいたものさえ抱かされる。そしてこの、目が覚めるような、研ぎ澄まされた過不足ない文体。そこには、一点の綻びも見つけることができない。


 もちろん、すべてが手放しの賞賛に値するというわけではない。たとえば、「若者」の描写、わけてもその話し方には、かなり強烈な違和感を覚える。この物語の背景が、作品執筆当時(1980年代後半)だと仮定すると、奇しくも私が高校から大学に上がるくらいの時代である。ここに描かれている「若者」は、概して、それより少なくとも20年は昔の「若者」のような話し方をしている。世代的なものもあって、「若者」を描くのはやや苦手だったのだろう。


 最悪なのは、最後の1章「しずかな若者」における「龍一」をめぐる描写だ。ひと頃の片岡義雄か、最盛期のわたせせいぞうのマンガのようなチープさ、非現実感のオンパレードだ。こんな「若者」は、いつの時代にも実在したことがなかったと思う(実在したとすれば、それは自分がそうだと思い込んでいたケースに限られるだろう)。あえてこの章を書こうと思った佐藤の真意が測り知れない。未完だということがわかっていても、たまたまこれが順番から言って最後に位置していたということが惜しまれる。この1章のせいで、清冽な読後感が何割か損なわれてしまう気がするからだ。


 しかし、そうした些細な瑕疵を除けば、この作品はまさに珠玉の連作短編集だと言うことができる。特に、最初の1編「まだ若い廃墟」が、私は好きだ。山の中で自殺したかもしれない兄を、ふもとで何時間も待ちつづける妹。この不吉な滑り出しが、短編群全体を貫く淡い陰影を帯びたトーンを決定している。一定の距離を置いて冷徹に、丹念に描かれた、名もなき小市民たちの喜怒哀楽。劇的なことは決して起こらないが、むしろそのストイックさや静謐さゆえに、描かれた人物たちが圧倒的な現実感を伴って迫ってくる。


 最後から2つ目の「この日曜日」で描かれる職安職員・啓介もいい。「人生には教養が必要」と言って積極的に本を読むが、読んでいるのはいつも「ベストセラー」。妻とともに美術を観賞しに行くような自分を誇りに思い、周囲の同僚たちに対してほのかな優越感を抱いているが、観に行くのは日本でも大衆的な人気のあるモネ(しかも、展示されるのが実は複製にすぎないことを、同僚は揶揄の気持ちを押し隠しながら黙っている)。そんな彼は、吸う煙草まで、「ステータス」に見合った銘柄を選ぼうとする。「ゴロワース」である。


 ちなみに、これの原語はフランス語で、”Gauloises”と綴るので、発音は本来、「ゴロワーズ」が正しい。しかもこの煙草は、葉巻のような強烈な香りがする洋モクとして一部の愛煙家から熱狂的な支持を受けてはいるものの、当地フランスでは、基本的に「労働者階級が吸う煙草」という位置づけである(日本の「ハイライト」に相当)。啓介が「ステータス」の証をこれに求めるなら、むしろ目的と逆のことをしてしまっている結果になる。佐藤自身にそこまでの意図があったかどうかは不明だが、小道具の選び方としてはまったくもって絶妙である。それは啓介の、自覚できていないスノビズム、「どこかで聞いたような」ものにしか反応できない感性の貧しさを、きわめて的確に炙り出しているからである。


 啓介という人物のそうした描き方についても言えることだが、佐藤のまなざしは常に微視的で、ときに少しばかり残酷で、そつがない。極小の小道具やエピソードの入念な積み上げによって、人物像や、彼らにとっての世界のありようを浮かび上がらせようとする。商業主義とはおよそ無縁なこうした書き方のできる作家が、現代の日本にどれだけ生存しているだろうか。自戒の気持ちも込めて、もう一度じっくりと読み返してみたい作品である。

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