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「懐かしい声 〜『青い朝顔』に寄せて〜」月立 晶


「あれ、読んだか?ナカガミのインタビュー記事」
「ああ、しかし都はるみっていわれてもなあ…」
 溜まり場だった焼き鳥屋の座敷で、いつものように「ハツ、シロ、スナギモ」と声をかけ、おしぼりと同時に供されるチューハイをのどに流し込みながら始まる貧乏学生の文学談義。好きか嫌いかは抜きにして、トリモツの串焼きと同じように中上健次はあの時代、あの場所に不可欠な存在だった。彼が「物語」の向こう側へ行ってしまう以前のことだ。なんだか不思議な気がするが、あのころ、中上健次はまだ生きていたのだった。


 杯が進み、怒号とともに枝豆やら落花生やらが飛び交い始めるころには、否定派の意見から批評の化粧が剥げ落ちて、いつもの管を巻き始める。彼らは言うのだ。「文体のアクが強すぎて読みにくい」「自我が前面に出しゃばって鼻につく」と。


 そうした評価は、作家の強烈な個性ゆえかと思う。アクが強く読みにくいという面は確かにあるかもしれない、それが薄っぺらな文明の足下を流れる土俗的情念の大河を描き切るために獲得した手法だとしても。けれど自我が出しゃばっているという批判は当たらない。お門違いというものだ。むしろ村上春樹を筆頭に、そのチルドレンといわれる作家たち、彼らの作品こそ自我が全面に押し出された、というよりも肥大した自我そのものではないか。

 
 かつて中上健次は対談で、芥川賞を受賞した『岬』を経て『枯木灘』にいたる過程でポリフォニックな表現を目指したと語り、『地の果て 至上の時』について「視線の複合(ポリフォニー)を意識して書いた」と述べている。さらに、発言集「フォークナー衝撃」の中には次のような言葉が納められている。

噂ということは、語りということと関係がありますが、噂というと、人称が隠されて、 語りだけが浮遊する。当然人称が消されるんですから、私が語るんじゃなくて、誰かがということになるんですけれど、そうするとその語りが複合的な意味をもちます。これは、ポリフォニーとかコーラスまでいかなくても、まあ一種のコーラスみたいなものですね。

 彼の言うポリフォニーが、『カラマーゾフの兄弟』の作者を論ずる際に評論家がしばしば言及するそれと同質とは思わない。けれど少なくとも、彼が早い段階から複合的な語りを意識し、そこに“物語ることを純化する”可能性を見ていたことは間違いないだろう。

ポリフォニー小説とは何か、に対する答えのようである。多彩な登場人物はいずれも活き活きと描かれているし、語りの重層性も生きてはいる。だが、その作品は中上健次というよりは池澤夏樹に、ガルシア・マルケスというよりはル・クレジオに近い。溶け合わない声の交錯はポリフォニーの特質だとしても、比喩のための比喩を多用し、回りくどく書くことがいいとは思わない。

 上記は、かつて島田雅彦がとある新人賞の選評で述べた言葉だ。ここでいう中上健次池澤夏樹の違い、ガルシア・マルケスル・クレジオの違いとは一体何か。うまく表現できないが、たとえば「土俗」対「都市」、「本質」対「現象」といったイメージではないだろうか。


 確かに中上健次の小説は、現象を観察するようには読まれない。否応なく本質に手を突っ込まざるを得ず、小説世界を実際に体験する感覚を伴う。そうして読者がいざなわれる路地の中心には、全ての小説の核となる「物語」を沈めた井戸がある。

 彼が生れたとき、すでに父の異なる12歳離れた兄と3人の姉がいて、実父は刑に服していた。実父は彼が3歳のとき出所したが、母は自分以外に二人の女を同時に孕ませていた男を許さなかった。戦後の混乱期、行商をしながら五人の子を育てていた母はやがて一人の男に出合い、父の異なる彼だけを連れて、同様に一人の息子を連れたその男と所帯を持った。兄は自分たちを棄てた母と彼を許さないと言い、酒に酔い刃物を持って繰り返し押しかけた挙句、24歳のある日、自らくびれて死んだ。

 中上健次の読者にとっては、形を変えて繰り返される馴染みの物語だが、これはそのまま作家の生い立ちだとされる。特異な経験が作家を創るとは思わない。経験を駆動力に変える感受性がなければ、どのような経験も無意味だろう。けれど、幸か不幸か経験と感受性の両方を合わせ持ったとき、そこに物語ることへの激しい衝動が生まれることは想像に難くない。           


 そして、やむにやまれぬ衝動に突き動かされながら物語を生み続けた作家が最後に残した短編小説、それが『青い朝顔』だった。

 
 本作では、登場人物が「弟」「姉」「兄」「母」といった家族内の関係性を表す呼称で統一され、名前や三人称は注意深く避けられている。詳細に読めば、「弟」の心象を軸に描かれているらしいことは分かるが、中心的な視点とはなり得ていない。こうした手法は、作品に一体どのような効果を与えているだろうか。


 たとえば「弟」について語られるとき、読者は関係性の糸で結ばれた「姉」や「母」、「兄」という存在を無意識のうちに想起する。そして時に「弟」の言動におぼろげな「兄」の影を見、「二番目の姉」が語る声のなかに、作品中では直接言葉を発することのない「一番目の姉」や「母」の声を聞き取る。きわめて短い作品でありながら、人物それぞれの存在感が確かな重みを持っているのは、こうした効果によるものだろう。これはいわば、島田雅彦ポリフォニーの特質として挙げた「溶け合わない声の交錯」について、その声が実は“互いの存在を内包し合っている”という側面をはっきりと浮かび上がらせている。


 そしてこのことは、小説の終盤、家の前まで帰ってきた姉弟が「開いた戸口から男が出て来た」のを見たとき、つながりを持たない「男」という存在の闖入によって生まれる緊張を際立たせる。「男」の登場は、「母」や「姉」を「女」へ還元し、一家に新しい関係性への転換を強いる。


 平衡を失った世界が傾斜していく未来、小説の余白の先にあるのは、たとえば母が弟だけを連れて男のもとへと去った後の物語、作家の商業紙デビュー作となった『一番はじめの出来事』に引き継がれる。主人公である「僕」は、『青い朝顔』の少年よりやや年長であり、母親と姉、そして家に寄りつかない兄がいる。姉が一人である点を除けば設定もほぼ同じで、『青い朝顔』の数年後の物語として読むこともできる。


 ただ、その数年の時間差に起因するとも考えられるが、二つの作品には決定的な違いがある。『一番はじめの出来事』の中核をなす“兄の縊死”という事件が、『青い朝顔』では描かれていないのだ。

兄が何の気なしに弟の髪を触り、飛びかかられた。不意をつかれ、顔をかきむしられもんどり打って倒れた兄は弟の腹をしたたかに蹴りつけ、「われ、狂犬病か?」と怒鳴った。

 上記は『青い朝顔』のなかで、弟と兄とが直接向き合う唯一の場面である。乱暴な仕方ではあるが、製材所近くの仔犬が弟に激しくじゃれつく様子を連想させ、触れ合うことへの渇望と不器用にしか伝え合えない愛情が感じられる。それは作中の兄が家に寄りつかないことに呼応しつつ、さらに作家にとっての「兄」が、もはや触れ合うことのかなわない存在であることをも意味している。そう考えるとき、「食べんのか?食べなんだら大きならん。強ならん。強なって皆噛んだれ」と仔犬に語りかける弟の言葉は、今の境遇から脱する力を得ようと自らに言い聞かせる言葉であると同時に、作家から「兄」へ、時をさかのぼって伝えたかったメッセージとして胸に響く。


 井戸の脇に咲く青い朝顔に、自分たちを見守る特別な存在を幻視する弟の願いには、時を越えて兄の魂を救済しようと試みる作家の祈りが仮託されているのではないだろうか。


 作家は、自身の出発点となった物語が沈む井戸の少しだけ奥に、最期の短編小説をそっと置いて逝った。


 余談だが、先日「東京新聞」(10月22日付夕刊)紙上で、中島みゆきが新しいアルバム「I LOVE YOU、答えてくれ」について語っている記事を読んだ。彼女は言う。「言葉は、音を伴っていないと駄目なの。いくら美辞麗句を並べられても、声が私の心に響かなければ、その人のことは信じられない」と。


 中上健次が逝って15年。わたしの胸に小説の言葉が肉声として響かなくなって久しい。