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「中上健次『青い朝顔』論」内海惟人


 中上健次の世界ということで、すぐに上がってくるキーワードは「路地」だろう。この世界について批評家や研究者が多くのことを語ってきたが、本当のところどのように考えればよいのだろうか。


 「紀州」という彼の作品の舞台となる地域をルポルタージュしたものがあるが、私にとって中上の世界に近い体験といえば、叔父の住んでいた三重県の津のイメージである。山と海が近く、外海の波が打ち寄せる海岸は激しく波しぶきをあげており、荒々しい風景だ。宝石商を営んでいた叔父は大男で、気性があらいというか豪快な人であった。なぜかゴルフに凝っていた当時中学生だった私を可愛がってくれて、津のコースへ連れていってくれたりした。根っからのゴルフ好きで、家の中でパットでなく、アイアンによるショットの練習をしていた。あるいは家の裏にある山にめがけてティーショットを行い、ちょうどいいぐあいに下の空き地にボールが落ちてくるのである程度たまるとひろいにいったりした。


 中上健次の小説は短編が優れていると思う。「青い朝顔」もそうだが、背景になる人間関係などがざっくりした表現で述べられ、作品に厚みを出している。「紀州サーガ」と呼ばれる一群の作品などにもいえることだろう。これは思いつきだが、村上春樹の一部の作品にも同様なことがいえるかもしれない。


 『枯木灘』などの長編ももちろん圧倒されるのであるが、ヨーロッパの小説などに比べると構造というものがなく、相対的に長い小説ということにすぎないような気がする。


 逆にいうと、彼のよくできた短編は、非常に切り口のはっきりした明解な構造をもっている。「青い朝顔」にしても「弟」の行動からこの家族のもつ性格、生活が鮮やかににじみ出てくる。あてずっぽうに言えば、芥川の「蜜柑」のような鮮やかさをもってはいないだろうか。


 それにしても現代文学における中上健次の評価の高さは正当的なものだろうか。「枯木灘」を江藤淳吉本隆明が高く評価したこともあるが、やはり柄谷行人らによるフォローが大きかったのではないだろうか。それも死後に始まる一連の座談会や全集の刊行などが若い人の間にも中上熱を広げたと思われる。


 中上がなくったとき、書店で中上の単行本は、文庫を別としておそらく『軽蔑』くらいしか手に入らなかったように思う。だいたいそんなものかもしれないが、亡くなってから注目されるのが芸術家の運命といえるのではないだろうか。