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カさん(仮称)「僕って何・1986」


  先頃、『団塊パンチ』という雑誌が発売されたが、ポール・オースターの生まれた年を見て、ああ、この人も日本で言えば団塊の世代なんだ、と妙に納得してしまった。


 一読してのコメントは、特に目新しいところがなかった、という、感想ともいえない感想である。(「どこかで読んだことあるな」が随所にあったせいだが、それはどちらを先に読んだかに左右されるので、何とも言えないが...)ちょうど二十年前に書かれた作品だが、時代性を鑑みると、特定の時代を設定しなくても読めてしまう、といえばそうかもしれないし、八十年代らしい小説(問題意識として)といえばそうかもしれない、というのが、どっちつかずだが率直な印象である。


 全体としては、前半部分で、ファンショーは「僕」によって語られるだけの実在が不確かな存在で、この小説は「僕」の自作自演の物語なのかと一瞬疑った以外は、いわゆる「不確かな自己/他者」をめぐる物語として素直に読んだが、語り手である「僕」の都合良さ、ファンショー以外の人間の人間的な薄っぺらさに、読後も不満が残った。たとえば、ソフィーがちっとも魅力的に描かれていない。訳者の柴田元幸氏はあとがきで、小説内で(おそらく)唯一、ソフィーは「生きる人」として設定されていると解釈されているが、「僕」にとっても「ファンショー」にとっても重要人物であるはずのソフィーに、最後までリアルな生気を感じることはできなかった。というのも、語り手「僕」に対して魅力を感じなかったからで、「僕」が惹かれ、また「僕」をどういうわけか愛し続けるソフィーにも魅力を感じなかったのだ。


 でも。言ってしまえば、冒頭から明らかなように、語り手「僕」は、自分とファンショー以外の人間には興味がないのである。初めから二人だけで完結している世界で、「僕」はファンショーになり、ファンショーは「僕」になる。「僕」とファンショーの関係は、自分の尻尾をおいかけている動物のようで、一心同体、他者は介在不可能に近い。物語は、お互いが引き合い遠ざけ合う「僕」とファンショーの力学で動いていく。ソフィーをはじめとする周囲の人間は、その二人の関係性の変化を支える小道具であって、刺激的な誘発剤ではない。


 色々な意味で既視感が多く伴ったこの作品については、現段階ではあまり公正な評価ができないが、もし、10年ほど早く生まれていて10年ほど早くこの本に出会っていたら、感想はもっと違ったものになったかもしれない。三部作の前二作など、他のオースター小説とのシンクロについては、未読のため発見不可能であったが、機会があればオースターに取り組みなおしてみる価値はあるかもしれない。