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『ナジャ』を読む 辻夏悟

 
 「私とは誰か?」で始まるこの小説。そもそも僕にとっては「アンドレ・ブルトンとは誰か?」、「シュルレアリスムとは何か?」というレベルの話だったので、まず一応、基本的なことだけは勉強してみた。巖谷國士の『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫)も池袋のリブロで立ち読みした。


 しかし、ここでU研の人を相手に付け焼刃の知識を披露してもしょうがない。だから、とりあえず僕はシュルレアリスムや自動筆記やその他諸々の小難しい固有名詞なんかを括弧でくくるところから始める。僕に書けるのは、「いかに楽しく、非芸術的に『ナジャ』を読むか」、これだけだ。


 このレポートでは、内海さんに「達磨」にされるのを覚悟で、そんなことをつらつらと考えてみたい。

 
1. ストリート・ノヴェルとして読む


 長らく僕は『ナジャ』をストリート・ノヴェルだと思っていた。いつそんなイメージを植えつけられたのかは、ちょっと覚えてない。どこかで簡単な粗筋を読んで、自分でそう思い込んだだけなのかもしれない。松岡正剛の『千夜千冊』で、『ナジャ』を取り上げた回があり、そこに「ストリート・ノヴェル」云々の記述があるかと思って調べてみたが、それも違った(参考:http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0634.html)。


 しかし実際、『ナジャ』はストリート・ノヴェルなのである。この小説は街を無為にぶらぶらする楽しさに満ち溢れている。

 昨年の十月四日、それはあのまったく何もすることのない、ひどくうっとうしい午後のおわりであったが、私はそんな一刻をすごす秘訣を心得ているので、ラファイエット通りにやってきていた。『ユマニテ』の本屋の陳列窓の前でしばらく立ち止まり、トロツキーの近刊書を買い求めてから、あてもなくオペラ座の方向に道をとっていた。(P57)

 ナジャとの運命的な出会いの直前の描写である。もし今日において、こんな鬱々&飄々とした日記ブログを書いている人がいたとしたら、たぶん僕は毎日チェックしているだろう。


 アメリカ文学でストリート・ノヴェル(ロード・ノヴェル? ま、似たようなものだ)の雄といえばジャック・ケルアックだ。彼もシュルレアリスムの自動筆記のように、目的地を決めず、ただただタイプライターを叩き続けて『路上』を頂点とする作品群を書いた。つまり、ストリート・ノヴェルにおいて、自動筆記による無意識の思考の移動というものは、そのままストリートでの空間の移動とパラレルになっている、ということなのかもしれない。だけど、まあ、そんなことはどうでもいい。


 最後に、『ナジャ』をストリート・ノヴェルとして読むには、冒頭の16ページまでをぶっ飛ばし、112ページで読むのをやめる必要があることを付け加えておく。

 
2. ノスタルジックな追憶の書として読む


 16ページから始まり、56ページの「さあようやく着いた、アンゴの塔は吹きとび、そこの鳩たちのおとす一面の羽毛の雪が、広い中庭の地面に触れては溶けてゆく、そして以前は瓦の敷きつめてあったその中庭も、いまや本物の地でおおわれている!」という印象的なフレーズで終わる部分。ここで書かれている、とりとめもないエピソード群は、なんともノスタルジックで魅力的である。この印象は、僕が読んでいる版の紙の色が古びてセピア色に変色しているせいだけではないはずだ。


 僕は『ナジャ』の中でも、この40ページ足らずのパートを一番、楽しく読んだ。テクストを書いている時点から考えると、ブルトンはたった10年ぐらい昔のことを書いているに過ぎないのだが、友人たちとのエピソードを懐かしそうに書くその筆致が湛えるエモーションは胸に迫る。


 シュルレアリスム運動というのは、思想上の違いから内部で分裂したり、いつのまにか仲直りしたりと人間関係では色々と大変なこともあったらしい。まるで大学の文科系サークルのようだ。しかし、とりあえず自分の友達を、自分の小説に出すというブルトンの基本姿勢は正しい。作られたフィクションの登場人物なんかよりも、シュルレアリスムに関わった実在の人たちの方が、はるかにキャラが立っているのだから。所々で挿入されている写真を見る限り、皆、面構えもよい。


 どうでもいいけれど22ページのパンジャマン・ペレの写真は見れば見るほど怖いですね。


3. アフォリズム集として読む


 正直、『ナジャ』には一読しただけでは意味のわからない文章が多い。読点で結ばれた、長いセンテンスを最後まで読んで、結局、意味がわからなかった時の気持ち悪さは耐え難いものがある。ほんと、僕はパニック障害を起こす寸前まで追い詰められた。


 しかし視点をちょっと変えてみよう。『ナジャ』を謎めいたアフォリズム集だと考えてみればどうか。

 私が私自身のうろたえた目撃者にしかなりえない一方の事実から、一部始終を充分に把握しているとつい私が思いこんでしまいがちな他方の事実までの距離は、いわゆる「シュルレアリスム的」な文句やテクストを構成するひとつの断定ないしは断定の集合から、おなじ観察者がすみずみまで入念に熟考吟味した文句ないしはテクストを構成するひとつの断定ないしは断定の集合までの距離と、おそらく等しいにちがいない。(P15)

以上の文章も、読む人の体調の良いときであれば、何か深遠な意味が見えてくるかもしれない。僕も、夏が終わって涼しい時期になったら、もう一度読んでみようと思っている。


4. 「働いたら負け」文学として読む


 一体、このアンドレ・ブルトンという人はどうやって生計を立てているのか。
 『ナジャ』をめぐる数多いミステリーのなかでも、とりわけ重要な謎の一つである。この小説を読む限り、ブルトンのすることといえば街をぶらぶらして、ナジャと逢引することばかり。しかもナジャにふんだんにお金を恵んであげてもいる。もちろん、その合間に詩作をして、それで金を稼いでいるのだとは思うのだが。


 そして作中に唐突に現れる「労働」批判…。

 私は労働の観念を物質的必要としてやむをえず受け容れているわけで、この点では労働のもっともよい配分、つまりもっとも正当な配分に誰よりも好意的である。(中略)労働しなくてはいけないというのなら、生きていてもしょうがない。(P55)

 一体、これは何なのか。岩波文庫版の巖谷國士の解説を読むと、どうやら共産党との思想的対決による産物だったという話だが。


 こういう現実から遊離した感覚、主張は、案外「働いたら負けかなと思っている」人たちが読むと共感してしまうものかもしれない。そして平日の昼間から街をぶらぶらするブルトンの姿は彼らの理想と映るだろう。


5. カフェ文学として読む


 ジム・ジャームッシュの新作『コーヒー&シガレット』が人気だ。これは、その名のとおりコーヒーとタバコを小道具にしたオムニバス映画である。どこかの雑誌で読んだのだが、最近はとにかくコーヒーなど「カフェ」的なものさえ出てくれば、その映画はヒットしてしまうという現象があるようだ。侯孝賢の『珈琲時光』も、同じような理由でヒットしたらしい(かくいう私もカフェ映画として観に行ったクチである)。


 だから『ナジャ』を現代の若者たちに受け入れさせたいのであれば、とにかくこれを「カフェ文学」として読むことを勧めるのが良い。単純にカフェのシーンも多いし、アンドレ・ブルトンの「あなたは誰?」という質問に対して、「私はさまよえる魂」(P66)と答えるナジャの不思議ちゃんっぷりも、実に「カフェ的」である。


 そしてシュルレアリスムも、高尚な「芸術運動」として理解するのではなく、単純に個人のライフスタイルの問題と考えてみると、ここにカフェ的なるものとの共通点が浮かび上がってくる。


 シュルレアリスムが主張していたのは、おそらく「現実なんて、基本的に『くそたわけ』(C絲山秋子)なものなんだから、いろいろと自分で工夫して、心がドキドキわくわくするような毎日を発見しようよ★」ということである(違う?)。


 だとするなら、これは、シンプルな日常の中に、一瞬の特権的なキラメキを見つけようとする、雑誌『クーネル』的な言説に重なるのではないか。これぞカフェ的な世界観ではないのか。果たして『ナジャ』はスローライフ礼賛の書なのか? ていうか『クーネル』=カフェと単純に結び付けていいのか? 僕にはみんなの反論が聞こえない。そこにいるのは誰か? 僕ひとりなのか? これは、僕自身なのか?



 以上、楽しく『ナジャ』を読むために色々と努力してみました。でも、やっぱり『ナジャ』は僕にはちょっと難しいようでした。というわけで、おし、マイケル!(←一度、言ってみたかった)