●1999年から続く文化系サラリーマンたちの読書会。白水社さんを勝手に応援中です。
●メールはu_ken7@yahoo.co.jpまで。
●当ブログのコンテンツ
U研って何?メンバーこれまでの歩み活動レポート掲示板リンク集

[課題レポートアンドレ・ブルトン『ナジャ』を読んで―「ナジャという女」 南野うらら


 まず一読して、ブルトンの詩人としての自意識の強烈さ、転んでもタダでは起きない貪欲さに辟易しました。この「小説」は実在の女性ナジャとの交遊を描いた一種の「ノンフィクション」ですが、これだけ濃密で主観的な描写に埋めつくされていれば創作以上の創作ですね。私たちはブルトンの言葉を通してしかナジャと出会うことができませんが、この気高くも優雅でもない女性の寂しい横顔は読後にしっかり胸に刻みこまれます。とにかく居心地の悪いロマンスの記録です。


 そして。正直言いまして私、かなりの既視感がありました。


 「あ……いるよねえ、ナジャみたいなヒト」って思ってずーんと暗くなったのです。電波系美女。あるいは電波系「美女風」とでも言うべきでしょうか。


若くて服装のセンスがちょっとエキセントリックで、妖精のように現実ばなれしているようでいて強烈に「現実」を感じさせる不幸な香りがするという……実際にいるよね、こういう人? まったく神秘的じゃないよね? 


 ブルトンの視線を通してみたとき、ナジャは神秘的で不吉な出来損ないのミューズです。プロの詩人としての使命感に燃え、それ以外には心を動かされることも少なく見えるブルトン。彼がナジャに惹かれたことは事実でしょう。自分のことを「さまよえる魂」などと素で言ってしまえるナジャは確かにブルトンが自己投影できる対象です。庇護を求めるナジャを突き放しつつ、自分の「ファン」として、霊感の源泉として確保し、最後には作品のネタとして昇華してしまうブルトンの態度は「それって人としてどうなの」感がつきまといますが、しかしそんな非難は覚悟の上でしょうから大したものです。


 情けないのはナジャ。愚かなのはナジャ。子どもを田舎におきざりにして、何のあてもなくパリをさまよい、娼婦まがいの行為を働いて生きる「自由」なナジャ。


 そもそも彼女は何を求めてこんな暮らしをしているのでしょうか。パリで一体何をしている(あるいは何をしようとしていた)のでしょうか。「彼女にもよくわからない」などと言ってお茶をにごしている場合ではありません。


 私は思います。


 彼女はなかなか絵がうまく、本も読む。そして教養もまあ、ないわけではない。たくさんの手紙を書く。そして劇場で踊り子をやっていたらしい。わかりにくいようでわかりやすい。


 彼女はおそらく〝漠然と〟有名になりたいタイプの女性なのです。


 画家か女優か作家、あるいはサロンの女王。それを俗っぽい欲望と片付けることは私にはできません。彼女は「自分を表現したい」という欲求にとりつかれた20世紀の女性なのです。おそらく彼女はレオノール・フィニマリー・ローランサン、あるいはスケールは違うがココ・シャネルのような女性になりたかったのではないでしょうか? そういう意味で実に現代的です。


 けれど才能・意志の強い性格、そしてそれを延ばすだけの余裕ある生活に恵まれなければ、女性の芸術家が成功するのは難しい。不幸にしてナジャにはすべて欠けていますが、ブルトンのような一流の詩人を面白がらせるだけのセンスの好さ、そして異性を魅了する美貌を持っています。だからこそ余計あきらめられずに、自分の限界をうまく把握できずパリに無駄な長逗留を続けているに違いないのです。


 こうなったらナジャ的女性の生きる方向は今も昔もひとつしかありません。「男性の芸術家のアシスタント」です。当然ナジャもソレを本能的に夢見たに違いありません。ブルトンには妻はすでにいた(『ああ! 結婚してらしたの……』)ので、残る役割は「ミューズ」です。かくして次の切ない台詞が飛び出します。

 「あなたはあたしのことを小説に書くわ。きっとよ」


 現実界においてはどん底の生活を送っており、自分には何の価値もないとうすうす気付いているナジャ。自分に恋している(かもしれない)男の想念のなかでは、自分は光り輝く運命のヒロインに変身すると彼女は夢見ます。


 そんなナジャは私にはほとんど正視できないほど愚かで痛々しい存在です。


 ブルトンは彼女のそんな面にあまり興味はなかったようですが、結果的にすごい迫力で女性の屈折した自己顕示欲を描いていると私は思います。だからこのアンチロマンスと呼ぶべき物語は岡崎京子の作品のようにいつでも「誤読」される可能性を秘めているのです。


 ナジャとブルトンの「愛の不可能性」はたいていの人々をぞっとさせるに違いありません。


 けれど、ある一部の女性読者は熱狂的に反応するのではないでしょうか。「ナジャは私よ」と言い出す読者が出てきても不思議はありません。男性の目を通して見たナジャが異様に美しく、同時に誰からも心から愛されない「あらゆる女のなかでいちばん惨めな、いちばん無防備な女」だからこそリアルなのですから。