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「愛ルケ」だけでは哀し過ぎる―幻想文学における純愛の可能性について 月立 晶


 「いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。精神と肉体と両方がつながり密着し、心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である。」…日経新聞連載小説「愛の流刑地」作者・渡辺淳一氏の言葉より。


 さすが淳一爺さん、揺るぎがない。純愛ブームを担っている一連の小説や映画については、確かに成熟からの逃避というか、オトナ社会からの意図的な退行現象と映る。けれど、恋愛から結婚そして家庭という流れが持つ、宿命的な情熱の放物線は容易には変えようもなく、ドラマが成立する仕掛けの一つとして、似非純愛が機能するのは仕方のないことだ。だいたい淳一爺さんの小説にしたところで、決してまっとうな成熟社会を描いているわけではない。そこから一歩踏み外した「不倫」という仕掛けを使うことで、登場人物の情熱を加速させドラマとしての浮力を得ている。


 だが、純愛にせよ不倫にせよ、大方のフィクションで描かれているのは、あくまで健全な範囲の関係性だ。そこには広い意味での「言葉」があり、「言葉」によって伝え合い確かめ合う感情がある。ところが、ひとたび幻想の世界に迷い込むと、事態は一変する。


 本選集に収められた二編「押絵と旅する男」と「人魚」は、その主題と構造において符合する部分が多い。そこに描かれているのは、淳一爺さんにいわせれば恐らく似非純愛以前の、より未熟で歪んだ愛ということになるだろう。なにせそこには、肉体的な関係はおろか精神的つながりすらない。愛情の対象が人間ではなく、「言葉」を持たない存在だからだ。覗きからくりの中に閉じ込められた押絵の八百屋お七と、沈没船の船倉に潜む緑色の人魚。前者に恋した男は自ら押絵となってお七の傍らに納まり、後者に魅入られた男はアパートの浴槽で人魚の飼育を試みる。未熟であろうと歪んでいようと、それぞれ彼らなりの仕方で対象との密着を図り、それなりの充足感を得ることにも成功している。決して交わることのない孤独と孤独が、つかの間融合したかような錯覚に陥らせる下手な手品のごとき現世の恋愛に比べれば、幻想に生きる彼らの行為はタネが見え透いていないだけ純粋に思える。考えようによっては、淳一爺さんの説く至極当たり前の方法では到底到達し得ない、純愛の極みといえるのではないだろうか。


 ところで、「押絵と旅する男」は押絵になった男の弟が語る綺譚であるが、語りの内容が弟の妄想である可能性はもちろん、蜃気楼を見た帰りの出来事という設定によって、一切が聞き手である「私」の妄想が生んだ幻だという可能性すら示唆される。また「人魚」においては、医者との会話を挿入することで敢えて「ぼく」の正常性に疑問符をつけ、異常な体験そのものを他者と共有する場面を描かず、むしろ自己のドッペルゲンガーとの共通体験とすることで妄想的な性格を強めている。特に「人魚」においては、主人公の妄想が現実世界において、何らかの「事件」を引き起こした雰囲気を醸しており、不気味な読後感を残す。

 
 奇怪な非日常の世界が展開する一方で、全てが一人の人間の妄想である可能性を残しながら現実との接点を保つという構造は、しばしば幻想小説で採用される。それはすなわち幻想の舞台が、精神のバランスを欠いた途端わたしたち自身が体験するかもしれない世界、日常のそこかしこに口を開けている世界だということを意味する。現代において、こうした妄想の暗い穴に落ちてしまう確率は、美貌の人妻と道ならぬ恋に落ちるより、ずっと高いのかもしれない。