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『鍵のかかった部屋』を読む


 大戸屋で豆乳あげぱんを食べながら読了。


 あー、あー、あー! なるほど。こういう話ね。思い出した!(実は8年前に一度読んでいた)。


 (以下、ネタバレ注意かもしれません)


 『鍵のかかった部屋』、サラサラと読めるんだけどむずかしい。ちょっとタブッキの『遠い水平線』を読んだ時と感触が似てる。


 まずこのテクスト、幼い頃から主人公の前に一種の「超人」として立ちはだかっていたファンショーという友人に対する復讐譚として読める。


 と同時に、語り手に降りかかった全ての不幸(?)は最初からファンショーによって仕掛けられたものだという、まったく逆の読み方もできる。


 また、ファンショーが実在しない人間だとすれば(作中、最後まで姿をあらわさない)、これは単なる主人公の妄想バナとしても読めたりする。


 さらに、この作品の途中で、テクストの語り手が『幽霊たち』や『ガラスの街』を書いたポール・オースター自身であることが明かされるから、メタフィクションとしても読めるし、「物語を書くこと」についての寓話としても読める。


 探偵小説のパロディのようでもあるので、一種の「探偵小説論」かもしれない。『白鯨』などのアメリカ文学のキャノンを参照して、エイハブ=ファンショー、イシュメール=主人公などと読み替えたりすることも可能だったりする。


 一方で、他のオースター作品の登場人物(探偵のクィン)がテクスト内にひょっこり顔を出したりするから、またややこしい。


 「よく似た風貌」と描写されるファンショーと語り手の関係は、双子的というよりも、従属的な親子関係に近いし、オイディプス的な読みもできるかなあ(ベタすぎ)。


 重層的。ていうか、読み手に対する罠だらけのテクストだ。仕掛けられた罠が、読み手をテクストの世界に積極的に引きずり込もうとする。そして、その読み手に対する罠が、テクストの語り手に仕掛けられた罠とパラレルになっているから、ますます訳がわからなくなってくるわけだが。


 でも、まあなんというか、僕にとってあまり面白いテクストではなかったです。必要ない小説というか。バーセルミウディ・アレンを読むと、どんなにつまらない小説でもすごく切実なものを感じたりするのだけど、これはぴんとこない。


 とても個人的なことが書かれたテクストだという気がしてはいるのだけど…(一応、読書会まで時間があるので色々と調べてみますが)。


 僕はちょっとギブ・アップです。他の人は一体どう読むのかレポートが楽しみ。



 明日は給料日ですね。豆乳あげぱん40個ぐらい頼もうかな。